田園6月号 巻頭言
イエス・キリストを通しての神との出会い 協力司祭ザベリオイドヤガ神父
「出会い」という言葉は、人間にとって基本的な言葉であり温かい言葉でもある。人間は誰でも出会うために生まれてきたのである。現代の哲学者は、“人間は「関わり(relation)」である”ということを強調されている。人間は否応なしに誰かまたは何かに関わっていかなければならない。
今回は人間の存在と最も関わっている神との出会いについて考えてみたいと思う。キリストの教会共同体にとって、この神との出会いは最も大切な出会いである。
さらに、神との真の出会いは、もう一つの出会い″人間同士の出会い″なしに、神との出会いは不完全であり、神との出会いと人間同士の関係を十字架の縦と横の棒が見事にあらわしている。
神の場合でも人間の場合でも、相手を知れば知る程、出会い自体も深くなり、温かくなり、親しさが増してくる。神は抽象的な存在でもないし、漠然とした存在でもない。神は人間が認めるか認めないかによる存在でなく、客観的に存在されるのである。
神と出会うための道:理性、大自然、聖書、イエス・キリスト、そして人々(特に貧しい人々)を通して行う。
①理性の道を通して神と出会う
現代の心理学者や哲学者によると、現代の多くの人々は、啓示された神の言葉である聖書ばかりでなく、自分自身の理性でさえも信じなくなったとの詣である。この不信仰の状態は不安や無関心を生み出し、そして矛盾のようであるが、最後にますます多くの宗教を生み出すのである。
社会学者によると日本でも現代ほどいろいろな宗教があった時代はなかったと言っている。信仰が薄らいでくれば来るほどさまざまな迷信が増え、信仰が深まれば深まるほど迷信が少なくなる。
さて、唯一の神と出会うためのひとつの道は、いつの時代においても″理性″である。この道は「下から上の道」、つまり人間から神への道であり、カトリック教会は百年前の第一ヴァチカン公会議において公に認められた。一般的な人々にとっては理性を通して、唯一の神と出会うことは簡単ではないが、有名な哲学者プラトンやアリストテレスのように自分の理性の力で唯一の神と出会えた人もいる。
②宇宙万物の道を通して神と出会う
朝日を拝んだりお月様を拝んだり山を拝むなどの行為に神々を拝む姿が見える。この様に「この道そのものを神にしてしまう」という危険性もある。
ところがこの大自然の道は、さまざまな危険を伴いがちだと言っても、神と出会うためにいろいろな時代や国の聖人が、良く利用した道である。神と出会うためというよりも、すでに神と出会ったことを更に深めるために利用された道である。たとえばアシジの聖フランシスコである。すなわち、大自然の中で神の足跡を見出して、唯一の神とより深く出会うことは、人間にとって聖なる務めであると言える。
③聖書を通して神と出会う
神ご自身が愛と哀れみを持って、人間と出会うために開いてくださった道がある。この道は今までの理性の道や自然の道と違って、信仰による道である。信仰によるこの道とは、「聖書の道」である。
聖書とは普通の本ではなく、科学的な研究をするための書物でもない。また人間の好奇心を満足させるための本でもない。あくまでも信仰の本であり「命の本」であって、人間の基本的な問題である幸せに関わる本である。聖書は人間と出会うための書である。神は永遠の愛(アガペ)そのものだから、人間と出会って人間を幸せにしたいのである。使徒ヨハネは「神は愛である(一ヨハネ4,8)」と言っている。この言葉は聖書の中心となる言葉であり、神の本質を現している。
聖書は道徳の本と言うよりも、命の本であり、人間の存在に関わってくる書である。聖書は救いの業の書であって、救い主であるイエス・キリストを紹介してくださる書である。
④イエス・キリストは神と出会う最終的な道である
イエスーキリストは神と出会うための道である。だからこそ、イエス様は最後の晩餐で弟子達に言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたたちがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる(ヨハネ14,6‐7)」また、同じ晩餐のところで、フィリポはイエス様に言った。「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます。」イエスは仰せになった。「フィリポ、こんなに長い間、あなた達と一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。私を見たものは、父を見たのである。」(ヨハネ14,8-9)
人間は誰でも安心して自分の人生の旅を送りたいし、終わりたいのである。そのために安心して、一緒に歩んでいく共(友)が欲しい。イエスーキリストは、人間にとって神と出会うための道ばかりではなく、神と人間の間における仲介者であり、人間の旅を一緒に歩む唯一の友人である。この唯一の友人を通してわたし達は神と出会えるのである。すなわち、人生はイエス・キリストと共に父である神の方へ歩む旅である。
イエス様と御父の密接な関わりは.新約聖書のありとあらゆる所で見られる。ヨハネ福音書の中だけでも百回近く見られる。イエス・キリストを考えるとき、父である神との関わりなしには考えられない。
ところが、イエスーキリストを通して神と出会うためには、まずイエス様ご自身と出会わなければならない。福音書の中ではいろいろな形で人々とイエス様との出会いが見られる。先ず四人の弟子との出会い(マタイ4,18-22)があり、使徒マタイとの出会い(マタイ9,9-13)、エリコの盲人との出会い(マルコ10,46‐52)、大金持ちの若者との出会い(ルカ18,18‐23)、ザアカイとの出会い(ルカ19,1-10)、サマリアの女との出会い(ヨハネ4,1-12)、パウロとの出会い(使徒言行録9,1-18)等がある。
ここで一つの例として、「エリコの盲人とイエス様との出会い」について分析してみたい。わたし達人間は、道端に待っている盲人ではないだろうか。わたし達も、誰かに叫びたいのではないだろうか。エリコの盲人は、周りの人々に「だまっていなさい!」と言われたが、彼はますます叫び続けてイエス様と出会うことができ、ついには目が見えるようになった。彼は肉体的な面ばかりでなく、心の面でも見えるようになり、最終的にはイエス様に従って信じるようになり、弟子となった。周りの人々の言うことを気に留めずに、イエス様に出会うまでがんばった。
必ずしも周りにいるすべての人々かわたし達の真の幸せを考えてくれているわけではない。自分自身が探し求めて、叫んでいかなければならない場合は少なくない。更に探し求めていくと、イエス様との出会い、イエス様と一緒になって、自分の人生の旅を明るくすることができ、父である神の方へと進むようになれる。
⑤人々を通して、キリストと出会い神と出会う
最後に、神と出会うためのもう一つの大切な道がある。この道は″人々の中″で、特に貧しい人々の中での道である。
今回の冒頭の部分で取り上げたキリスト教のシンボルは切り離せない十字架の二本の棒である。縦の棒は直接神を指しているが、横の棒は確実に自分以外のすべての人々を指している。
キリスト教は宗教の神秘を大切にする一方、世の中の現実も大切にする。大自然をも大事にするが、それにもまして人々をもっと大切にする。
ごく最近、教皇ヨハネ・パウロー.世は二千年の聖なる年にちなんで、全世界の前で頭を下げて、カトリック教会が二千年間の歴史の中で人類に対し犯した過ちに対する許しをこい願った。現在も教会はパパ様ご自身を先頭にして、世界のありとあらゆる所で叫びながら、伊の中に存在する過酷な貧富の差や不正義に立ち向かって働きつづけている。
神との出会いはいろいろな人々と付き合うときに生まれるはずであるが、特に貧しい人々、さげすまれた人々、飢えている人々の中に神との出会いが生まれやすいのである。
イエス様は言われた。「あなたがたは、わたしが飢えているときに食べさせ、渇いているときに飲ませ、病気のときに見舞い、牢屋にいるときに訪わてくれた」(マタイ25,35)。
マザーテレサが深く、親しくキリストに出会ったのは、カルカッタの道端に飢えている子供に出会ったときのことであった。
今日の話は結論を出す話ではなく、どうするかはそわぞれにお任せします。しかし、最後に一つの質問をしたい。まじめに、正直に、人間らしく、恐れずに、心から、「イエス・キリストの神と出会いたいと思っていますか」。祈りながら探しましょう。「探しなさい。そうすれば見つかる」。つまり探せば、遅かれ早かれ神ご自身が、温かく迎えに来てくれるでしょう。ありがとう!