田園8月号 巻頭言
「八月」、平和な死に方を覚えるための月
協力司祭 ザベリオ・イドヤガ神父
カトリック教会は十一月を「死者の月」として祝います。日本では八月の真ん中に当たるお盆を中心にして、“平和− シャロム”を祈りながら、御墓参りや死者に対する他の行事を行うのです。
世界中のどの文化の中でも、死者への尊厳が大切にされます。人間にとって、死者とのつながりは大切なものであるが、寿命を出来るだけ長く延ばすために働く重い責任も持っている。
教皇ピオ12世は、1957年はっきり宣言なさった。「医学をもって人間を助けている方々は神御自身の協力者である」。
しかし、医学の素晴らしい発展にも関わらず、毎日数え切れない人間がこの世を去るのも忘れてならない。それ故人間は、特にキリスト者は、死の問題を蔑ろにしてはいけない。皆さん、折角の月です。自分の死もいずれ訪れるのだから、平和な死を迎えるように少し黙想いたしましょう。
楽しい死に方を迎えるために楽しい生き方を覚える必要がある。自分の死の事実を
悟るためには、現在の生き方を図って、より良い価値観で将来を計画する必要がある。死という物は大人の人間やキリスト者にとって、成長するための一つの大切な区切りである。人間にとって、日々の生活は掛け替えのない一つの「死の過越」ですが、意識のある「過越」として過ごせば、“楽しい旅”に変えられる。
死が生み出してくれる本当の知恵は多くの不安や怖さを軽減させるのです。多くの病気は高すぎる理想の結果です。気がか
り、幻滅、妬み、恐怖などの奴隷になるのです。ところが多くの60歳、70歳の人々がそれらの奴隷から解放されて、生き生きと生活しているのです。50歳の時より70歳になって生き生きしているのです、なぜなら全ての物は、自分自身も、自分の人生をも含み、“相対的なもの”に過ぎない事に気が付いたからです。青春時代だけを理想と思うのではなければ、老人時代を没落の時代と思うのでもない。各年齢なりの楽しみと使命を実現して行けば十分ですし、将来は現在よりももっと楽しく過ごせるようになります。
人間には大切な宿題がある。「死ぬ事を学ぶこと」。勿論、全ての痛みから解放されて生きるのは無理ですが、それしても、死を避けたい辛い悩みから解放されて意味がある落ち着きを味わうのは当然のことです。色々な病人を訪問する事や様々な御通夜やお葬式に参加する事は非常にいい勉強になります。他人から学ぶ事は、例え御葬式であっても、いい事です。人間は自分の限度を認めて、死を迎える事は賢い業です。
感謝と喜びを持って「さようなら」と言う事を覚えるのは謙虚な方のやり方ですし、希望と安心感を身に付ける最後で最高の恵みです。しかも「又会う日まで!」と歌いながら・・・こういう人は亡くなってからも平和 – シャロムの種を蒔いている!一つの例:何十年前、差別のために暗殺されたマルチン・キング・ルターの存在が現在のオバマさんがアメリカの大統領になるために大きな影響を与えたのは誰も否定できません。
私たちは人間として、自分たちの生き方、自分の使命、自分の行き先、自分の最終的
な目的を悟って、希望と喜びを持って、この世に過ごすのは一番大切な勤めです。止むを得ず、私たちは、常に死の陰に包まれています。この“死の覆い”がいつも温かく守ってくださるように自分の人生を歩んだらいかがでしょうか?
これこそ、特に戦後の日本の八月のシンボルであるべき「平和ーシャロム」に当たるのではないでしょうか? “はかない墓の平和ーシャロム”を怖がってはいけません!自分の使命を謙虚な心で、静かに、今までの色々な仕事や立場から素直に降りて、(頭を下げることは大事ですよ!)、自分の時代が終わったことを悟って、全面的に神への信頼と感謝を表して、イエス様と同じく、“父よ、全てあなたの手に委ねます”と言って、自分の立場も、仕事も、全て神にお任せして、この世を去るのは大きな恵みではないでしょうか?
教会内で最近素晴らしい模範が見えました。世界中の注目を集めた出来事です。教皇ベネディクト16世の模範であります。
彼の謙虚な辞任のおかげて、生き生さしておられる教皇様が生まれました。教皇ベネディクト16世に「ご苦労様でした!」と言いながら、新しい教皇フランシスコの謙虚さ、朗らかさ、祈り方、たくましさ、などを見倣って、それぞれの立場や責任から降りて、一人一人のカトリック信者も両方の教皇様の態度を見倣ったらいかがでしようか?
キリスト者にとって、死ぬことは終わりではなく、始めである。始まろう!