田園2015年7月号 巻頭言

田園2015年7月号 巻頭言 教会に命を与える聖体

助任司祭 アウグストヌス桑田拓治神父

 

先月の聖体の祭日の日に、田園調布教会で十一人の子供たちが初聖体のお恵みを頂くことが出来ました。

ミサを司式しながら、私自身が初めて御聖体を拝領したときのことを思い出し、あらためて御聖体の秘跡こそが私たちのカトリックとしての信仰を根底から支えている恵みであると痛感しました。

逆説的にいえば、御聖体の秘跡がなければ私はカトリックの洗礼を受けることも、ましてや司祭になることなどあり得なかったと思います。

御聖体の秘跡こそ私たちの信仰を養い、教会に命を与える恵みなのです。しかし、この大いなる恵みを私たちはいつの間にか「当たり前のこと」としてしまっていないでしょうか。聖櫃の存在が大聖堂を、単なる会堂と異なるものにしていることを肌で感じているでしょうか。

なぜ大聖堂で沈黙を尊ばねばならないかを理解しているでしょうか。その一点に自らの贖いを見いだしているでしょうか。

 

聖体の祭日に行われた聖体賛美式で朗読された文章を以下に紹介したいと思います。聖櫃の前でこの文章を静かに深読し、私たちが頂いている聖体の秘跡(贖いの秘跡)のかたじけなさを味わい直す時間を持たれることをおすすめしたいと思います。

私たちは常に信仰を新たにし、この秘跡に立ち返るよう招かれているのです。

 

「聖櫃のイエスのつぶやき私はいつも待っている」

 

払はいつも待っている

病気で苦しむわたしの友のもとに運ばれることを

ミサに出られない病床の友を力づけることを

 

払はいつも待っている

死に望むわたしの友の最後の糧となることを

死は恐るるに足らぬことを

払は死に勝ったと告げることを

 

払はいつも待っている

この世の苦しみの中で力つきた私の友がわたしの前でその苦しみを吐露し、わたしが共に苦しむことをそれによってその苦しみが軽くなることを

私はいつも待っている

あの放蕩息子のように父の元を去ったわたしの友が父の元に帰るためにわたしを訪れる事を

 

払はいつも待っている

私の苦しみが友のためであったことわたしが友のためにいのちを投げ出したのを思い起こしてくれることを

 

払はいつも侍っている

かつて苦しんだように、かつて命を投げ出したように今も、友のために苦しみ、命を投げ出す用意があるのを悟ってくれることを

 

私はいつも待っている

これまでも、今もこれからも友の苦しみ、悲しみはわたしの苦しみ、悲しみであるのを分かってくれることを

 

私はいつも待っている

私の復活がわたしの友に希望をもたらすものであること、わたしがいつも共にいるのを悟ってくれることを

わたしはいつも待っている

幸せに満たされたわたしの友が父を賛美するためにわたしのもとを訪れる事を

 

私はいつも待っている

氷点下の寒さの聖堂、聖櫃の中で

四〇度を超す暑さの聖堂、聖櫃の中で

 

一日中誰も訪れることのないこの聖堂でわたしはいつも待っている

 

出典「旅人の糧ご聖体」ドンポスコ社

フランシスコ会司祭 小高毅

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