田園2017年5月号 巻頭言
田園2017年5月号 巻頭言
主が共にいてくださる
主任司祭 ドミニコ竹内正美神父
皆さんも聖書の中の話で、好きな箇所が一つや二つあるのではないでしょうか。わたしも好きなところがあります。一日の福音宣教を終え、湖でイエス様が弟子たちと一緒に船に乗って向こう岸に渡る時のところです(マルコ4・35-41)。
イエス様は、宣教活動できっと疲れていたのでしょう。イエス様は舟の艫のほうで、枕をして眠っておられました。ところが、湖は急に嵐のようになり、舟は木の葉のように大きな波にもて遊ばれ、今にも沈みそうになりました。
弟子たちは悪戦苦闘し、慌てふためいて、イエス様を揺り動かし、「イエス様、嵐ですよ。私たちがおぼれ死んでも、かまわないのですか。よく寝ておられますね。何とかしてくださいよ!」とちょっと非難がましく言いました。するとイエス様は弟子たちに言いました。「なぜ、そんなに恐れるのか。まだ信仰がないのか」と。
私はこのイエス様の言葉が好きです。なぜかと言いますと、イエス様は枕をして寝ていたかもしれません。
でも、そこに、イエス様が弟子だちと一緒にいたことには変わりなかったのです。
でも、弟子たちは、寝ているイエス様はそこにいても、まるでいないかのように、慌てふためいたのです。そして、イエス様を揺り起したので叱られたのです。睡眠を邪魔されたからではありません。「わたしはあなただちと共にいるではないか・・・」と。
私は弟子たちの姿の中に私白身の姿を見、イエス様がこんな信仰の薄い私自身に声を掛けてくださることに安心感を覚えます。
復活されたイエス様は、今、現実に私と一緒にいてくださいます。神様は何時も私と一緒なのです。洗礼を受けた時から、私たちは神様と一緒にいるはずです。だからこそ、本当は寂しかったり、心配したり、悩んだり、怖がったりしないはずなのです。
でも、私たちが、日常生活の折々に、時々心配に襲われたり、怖がったり、いろんなことがあります。このような時、自分が神様と一緒にいることなんかすっかり忘れてしまって慌てふためいてしまいます。そんな時、ふと気が付くと、私の横にイエス様がにっこり微笑んで、「なぜ恐れるのか、信仰の薄い者よ」と優しく語りかけてくださっています。
非難の言葉ではなく、共に寄り添ってくださる同伴者の優しい、愛情あふれた言葉と受け取ることができます。「わたしと一緒にいれば何も怖いことはないんだよ」と言っているように思います。だからこそ、私にとって、イエス様は必要なのです。