田園12月号 巻頭言
真のクリスマスの意昧とは 協力司祭ザベリオイドヤガ神父
はじめに一言
色々な国々の歴史によると、「クリスマス」という祭りはイエス・キリストの御降誕より先だって祝ってきた祭りなのです。
人類は、大昔から「太陽」をそれぞれのカレンダーの基にしてきたのです。人間は、太陽を中心にしてカレンダーを作り、そのカレンダーでは、太陽の祭りを日が伸び始める十二月の終わり頃にしていたのです。例えばローマ帝国においては、皇帝を「太陽」と呼んで、十二月の終わりごろに″皇帝=太陽の祭り″として祝ってきたのです。キリスト教も救い主であるイエス・キリスト様の御降誕をその時期[十二月二十四日]に当てはめるようにしたのす。
勿論、救い主イエス・キリストが生まれたことは私たちキリスト者にとって不動の真実ですが、確実に何時生まれたかは分かりません。
大切なのは何時生まれたか、何処で生まれたかという事の確実性よりも″生まれた事自体″を信じる事です。
クリスマスという言葉、曖昧な言葉
日本では、一般の人は「御降誕祭」を「クリスマス」と呼ぶが、はっきり申し上げると曖昧な意味、安っぼい表現に聞こえるし、世俗的な言葉に聞こえる。
教会の御降誕祭でも、一番大切な御降誕の神秘が隠れて見えなくなるほどにクリスマスツリーや教会建物そのものを過度に飾りつけているところがある。
大切なのは神の子が人の子として生まれたという神の愛そのものである。
自分の例を申し上げますが、あるクリスマスの時、私はお医者たちに″クリスマス″について話すようにと頼まれた。話を終えると一人のお医者さんから、″先生、教会でもクリスマスを祝うのですか?と尋ねられた。返すコメントがない!
御降誕祭は神の愛の爆発
太陽の暦を中心とした長い歴史の間の色々なクリスマスの祝い方や現代の世間的や
商売の匂いがする祝い方から完全に切離し、日本でも、安っぽい呼び方を止めて、そろそろ明確な呼び方、例えば「主の御降誕祭」と決めて、真剣に神の愛の爆発である救い主の誕生を祝うようにしたらいかがでしょうか?
「信仰年」も終わりになりました。
私たちはこの一年間で、信仰を深めて、神の愛、神の言葉の受肉や御復活の神秘を深く味わってきたでしょうか?真剣に反省して「信仰年」を終わって、どういう心で今年の御降誕を祝うつもりでいるのでしょうか?皆さん、歴史を完全に分けられるのはイエス・キリストの死と復活ですが、そのキリストの死と復活は「神の愛の″ビッグ・バン″」である御降誕に出発するのである。だからこそ御降誕は人間の最高の喜びである。
救い主の御降誕は横の人々との関わりにも響く
現在も東日本大震災の被災地では、離れ離れになって苦しんでいる家族がいます。もっと幅広く目を開けば、世界中で三分の二の人々は満腹せずに、その日その日を終えている事も事実です。一方では、御降誕祭の夜にペットちゃんのために特別なご馳走が用意されるところもあると聞いています。
受肉の神秘で表されている神の「愛の爆発」は、特に貧しい人々や蔑まれている人々に特別に及ぶのです。寂しくなりませんか?
御降誕祭は神の愛の頂点であり、皆が楽しく過ごす御祝日である:「Theos is agape」「神が愛である」と使徒ヨハネは言われます。その愛である神が、貧しく、馬小屋で生まれた。この真実を表すためには言葉は見つからない。深すぎる!だから、静かに感謝して拝む事しか出来ません。
何よりも、まず感謝して、神の愛の近さ、温かさ、謙虚さをよく見抜いて、そして同
時に、全ての人々、特に苦しんでいる人々、貧しい人々、孤独の中でいる人々の御降誕祭を思い起こして今年の御降誕祭を去年よりも、もう少し暖かい心で過ごしませんか
主の御降誕祭、おめでとう!