2022年2月27日 (C年) 年間第8主日 典礼について
第一朗読 シラ書27・4-7
話を聞かないうちは、人を褒めてはいけない。
答唱詩編 詩編92・2+3+4、13+14+15
たて琴をかなで、楽の音に合わせて、わたしは、神をほめうたう。
第二朗読 ①コリント15・54-58
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
福音朗読 ルカ6・39-45
39そのとき、イエスは弟子たちに、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。40弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。41あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。42自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
43「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。44木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。45善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」
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「目の中の丸太」
四旬節前の最後の年間主日となる今週の福音朗読は、先々週、先週の箇所に続き、いわゆる「平地の説教」(ルカ6・20-49)の中の言葉です。
最初にイエスは、盲人と案内人、弟子と師のたとえを用いて、福音を宣べ伝えるわたしたち自身がまず正しくイエスの教えに生きることの重要性を説きます。次の「おが屑と丸太」のたとえは、「人間は他人の欠点はよく見えるが、自分の欠点は見えにくい」という文脈で語られることもありますが、先週の愛の教え(ルカ6・27-38)の続きとして考えると「他人を裁いてはならない、赦しなさい」というメッセージとして捉えることができます。
他人の目にあるのが小さな「おが屑」で、自分の目にあるのが大きな「丸太」なのは、「人を裁く」「赦さない」という心のあり方自体が大きな罪であり、イエスの教えを見失っていることに他ならないと言っているのです。そうした心のあり方は、良しにつけ悪しきにつけ、わたしたちの行いや言葉として木になる実のように形となり、生活の中に現れることになります。
わたしたちが、澄みきった目でイエスの教えを見つめ、福音を正しく宣べ伝えて良い実を結ぶことができるよう、聖母マリアに助けととりなしを祈りましょう。