田園5月号 巻頭言

わたしは復活でありいのちである  主任司祭ドミニコ竹内正美神父

  わたしたちは先月の二十日、喜びのうちに復活祭を迎え、お祝いをしました。
「主の復活祭」はわたしたちにとって「大きな慰めと希望」が与えられたことを、改めて確認することができる時期といえます。

 「田園」五月号で『キリストの復活』について皆さんにお伝えしようと思います。
 イエスの復活を信じることは、キリスト者にとって信仰の真髄と言えます。聖パウロは「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教はむだであるし、あなたがたの信仰もむだです」(1コリント15・14)とはっきりと宣言しています。もし復活がなかったらイエスがどんな素晴らしい教えをわたしたちにもたらし、神の恵みをわたしたちに与えたとしても、そのことがイエスの十字架の死で終わったとしたならば、救いはそこに見えてはきません。
聖パウロは重ねて言います。「キリストが復活しなかったとすれば、あなたがたの信仰は馬鹿げており、あなたがたは今なお罪の状態に留まっていることになります」(1コリント15・17)と。
イエスの復活は、死に対する神の決定的な勝利を意味します。聖パウロは死への勝利を力強く述べています。「『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はとこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか』死のとげは罪である」(1コリント15・54〜56)
まさにキリスト教信仰の出発点は復活にあるのです。
 わたしたちキリスト者にとって「主の復活はわたしたちの信仰のより所であり、信仰の源である出来事」としてキリストの復活にしっかりと目を向けていかなければならないと思います。
 わたしの司牧体験の中で、特に、葬儀において「復活信仰」はご遺族や参列者にとって大きな慰めと希望がもたらされ、心の安らぎが与えられていることを実感してきました。わたしたちの誰もが人生の歩みの中で、人の死を体験します。家族、親族、友人、知人、信徒の方々がこの世を去っていくのをこの目で見ます。亡くなっていく人が、自分にとって大切な人、愛する人、かけがえのない人であればあるほど、その死は悲しく辛いものです。
 わたしたちは、人と交わりながら共に生きるということの中に、喜びと力をくみ取っていきます。死は、人間同士の決定的な別離であり、愛するものと一緒にいたいという望みを非情にも断ち切ります。
 ヨハネ福音書の中で、ラザロを亡くした姉妹マルタにイエスは言います「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11・25〜26)と言ってご自分が死を超える力を持っておられることを宣言され、永遠のいのちの与え主であることを示されたのです。
 
 私たちは、亡くなった人たちと、この世においてもう決して会うことはできません。しかし死ぬべき定めにあるわたしたちは、キリストの復活のいのちに与かることができます。その時わたしたちは、愛する人々と再び会い、神と共に永遠に生きるのです。この世に生きる私たちは、その日が来ることを待ち望んでいます。
 教皇フランシスコの説教を引用しますと「イエスーキリストが復活することは、どういうことでしょうか?わたしたちの復活は、終わりの日、すなわち世の終わりに、神の全能のみわざによって起こります。神はイエスの復活の力によって、わたしたちの肉体に再びいのちを与え、それを霊魂と再び結合します。イエスが復活したので、わたしたちも復活します。わたしたちが復活を希望するのは、イエスがこの復活の門を私たちに開いてくださったからです」。
 ここに、わたしたちの復活に寄せる大きな喜びと希望と慰めがあります。
聖パウロは晩年の心境をこのようにのべています。
 『世を去る時がきました。『わたしは善き戦いを戦い、走るべき道程を走り終え、信仰を守り抜きました。この後わたしのために用意されているのは、義の冠だけです』」(2テモテ4・7〜8)
 皆さん決意を新たにして信仰の歩みを続けましょう。
 

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