2025年9月7日 C年 年間第23主日 典礼について
宇宙の働きを見極めるほどの力があるなら、なぜそれらを支配する主を見いだせなかったのか
神を知らない人々は皆、生来むなしい。……
万物は御子によって、御子のために造られた
〔皆さん、〕御子は……
詩編 104・1+2a、 5+9、 10+12、 24+33
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2025年9月7日 C年 年間第23主日
第一朗読 知恵9・13-18
主の御旨を悟りうる者がいるでしょうか
答唱詩編 詩編90・3+5ab、4+5c+6、11+12
神のはからいは限りなく、生涯わたしはその中に生きる。
第二朗読 フィレモン9b-10、12-17
もはや奴隷としてではなく、愛する兄弟として、彼を迎え入れてください。
福音朗読 ルカ14・25-33
そのとき、25大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。26「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。27自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。28あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。29そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、30『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。31また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。32もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。33だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」
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腰をすえて考える
今日の福音でイエスは、「親兄弟や自分の命を憎まなければ、わたしの弟子ではありえない」と語られます。衝撃的な表現ですが、聖書の中で「憎む」とは、比較の文脈で「他のものより優先しない=二の次に置く」という意味でも用いられます。つまり「何よりも神を愛し、神を第一に置きなさい」という招きとして受け取ることができます。
とはいえ、現実の生活の中で家族や仕事、社会との関わりよりも、いつも目に見えない神を一番に置き続けるのは容易ではありません。そこでイエスは、塔を建てる人と戦に臨む王の二つのたとえを示し、軽率にではなく「腰をすえて考える」ことを求められます。
ミサは、わたしたちが「腰をすえる」ための時間と場所です。主日のミサの中で、この一週間、自分は何よりも神を大切にしてきたかを振り返りましょう。そしてこれからの一週間、主に従う決心を新たにし、必要ならば一切を手放す覚悟があるかどうかを、前もってじっくり考えてみてはどうでしょうか。
わたしたちがそれぞれの十字架を背負ってイエスに従い続けることができるよう、ミサの中で豊かな聖霊の導きが与えられますように。