2025年4月27日 C年 復活節 第2主日(神のいつくしみの主日) 典礼について
第一朗読 使徒言行録5・12-16
多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。
答唱詩編 詩編118・1+2、16+17、22+23
きょうこそ神が造られた日、喜び歌え、この日をともに。
第二朗読 黙示録1・9-11a、12-13、17-19
わたしは一度死んだが、見よ、世々限りなく生きる。
福音朗読 ヨハネ20・19-31
19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
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見ないのに信じる人
典礼の朗読は、復活の主日の「空の墓」の物語から始まり、第2・第3主日には「復活したイエスと弟子たちの再会」の場面へと続いていきます。弟子たちは、イエスを失った悲しみと、自分たちの身の危険に対する恐れから、心を閉ざし、引き籠っていました。そんな彼らのもとにイエスが突然現れ、家の戸も心の戸も飛び越えて真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と語りかけます。——「私はあなたがたとともにいる。だから何も恐れることはない」とおっしゃっておられるのです。
しかし、その場にいなかったトマスは、その出来事をどうしても信じることができませんでした。
このトマスの姿は、まさにわたしたち自身の姿でもあります。「何も信じられない、どこにも主を見いだせない」と叫びたくなる時が、人生にはあるものです。そんな時こそ、復活されたキリストの前に、飾らずに自分の心を差し出してみましょう。「釘の跡に指を入れてみなければ信じない」と駄々をこねる子どものようなわたしたちを、主はそれでも赦し、愛してくださっています。そのことに気づくはずです。
「見ないのに信じる人」(29節)となれるよう、聖霊の照らしを願って祈っていきましょう。