2024年12月25日 主の降誕(日中のミサ)
第一朗読 イザヤ52・7-10
地の果てまで、すべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐ。
答唱詩編 詩編98・1、2+3a、4+5
遠く地の果てまで、すべての者が神の救いを見た。
第二朗読 ヘブライ1・1-6
神は、御子によってわたしたちに語られた。
福音朗読 ヨハネ1・1-18
1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2この言は、初めに神と共にあった。3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。9その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。10言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。11言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。12しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。13この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
15ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」16わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。17律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。18いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
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神の言
主の降誕という大祝日の今日、福音は「初めに言があった」から始まる禅問答のような文章が読まれます。日本語訳は「言」と書いて「ことば」と読ませます。ギリシア語の「ロゴス」という単語を表現するために、当てられた字だそうです。この「ロゴス」自体に対応する日本語の概念が無いのですが、あえて言えば「神の思い」が近いでしょうか。つまり、イエスの存在そのもの、イエスが人として語る言葉、イエスの行い、それこそが神の思いが目に見えるものとなった具体的な事実であり、その存在にこそ命があり、光があり、暗闇の中に輝く希望なのだと、ヨハネは伝えています。
この神の言が世の片隅の貧しい馬屋にあらわされたということは、大変意義深いことです。神は天の高みにおられるのではなく、イエスという人間の姿を通して、わたしたちと同じところまで降りて来られました。貧しさの中で誕生し、人々の重荷を背負い、苦しみの中で死ぬことまでして、わたしたちにその思い、「言」を届けたいと願われたのです。
神の言が人となられたことを祝う今日、わたしたちはあらためて神の言に生き、そして神の言を多くの人に伝えていく決意を新たにしたいと思います。