2024年10月20日  B年  年間第29主日 典礼について

第一朗読  イザヤ53・10-11

彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。

答唱詩編  詩編33・4+5、14+15、20+21

神の注がれる目は、神をおそれる者に、神の愛に希望をおく者の上に。

第二朗読  ヘブライ4・14-16

大胆に恵みの座に近づこう

福音朗読  マルコ10・35-45

そのとき、35ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」36イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、37二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」38イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」39彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。40しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」41ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。

42そこで、イエスは十二人を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。43しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、44いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。45人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

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「仕える」

今日読まれる福音は、マルコ福音書の3回目の受難予告 (1032-34) に続く箇所です。ここでも、これまでの受難予告と同様に、その意味について無理解な弟子たちの姿が描かれています。最初にイエスの弟子になったゼベダイの子ヤコブとヨハネは、イエスが栄光を受けられるときに自分たちにも高い地位が与えられるようにして欲しいとイエスに嘆願します。他の弟子たちも、この抜け駆けに対して腹を立てたということなので、同じ考えだったのでしょう。

イエスはこれに対して、「わたしが飲む杯を飲み」、「わたしが受ける洗礼を受けることができるか」と問われます。この「杯」と「洗礼」は、イエスが受ける受難を表しており、イエスは弟子に、自らを捨てて、苦しみを受けようとも人のために尽くす覚悟を求めているのです。その結果として与えられる栄誉は神が決めることであり、その地位を願って得られるものではないのです。

人の子として、生涯をもって「仕える」ことを教えてくださったイエスにならって、わたしたちも仕える者となれるよう、聖霊の導きを願いましょう。

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