2022年10月23日  C年  年間第30主日 典礼について

第一朗読  シラ3515b-1720-22a

謙虚な人の祈りは、雲を突き抜けて行く。

答唱詩編  詩編342+316+1819+23

主を仰ぎ見て、光を受けよう。主が訪れる人の顔は輝く。

第二朗読  テモテ46-816-18

今や、義の栄冠を受けるばかりである。

福音朗読  ルカ189-14

そのとき、9自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して、イエスは次のたとえを話された。

10「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』13ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』14言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。

だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

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徴税人の祈り

今日の福音は、エルサレムへの旅の段落の中にあるたとえ話ですが、先週の箇所(やもめと裁判官のたとえ話、ルカ181-8節)の文脈の続きで、祈りがテーマになっています。

ファリサイ派の人は「律法に従って生活する自分は正しく、そうでない他人は間違っている」といううぬぼれた考えを持ち、それをそのまま祈りに反映させました。徴税人は反対に「ただ自分の罪を認め、神の赦しを請おう」というへりくだった考えで祈りました。「罪」とは「神の言いつけに従う/従わない」ではなく、神から心が離れること自体を指します。神から遠く離れてしまっている自分を感じることが、罪を認めることなのです。また「義とされて」(14節)とありますが、これは「神の義」、すなわち「神のみこころにかなう」という意味です。

人と比べることなく、ありのままの弱い自分を見つめ、神からの遠さを感じて赦しを願いましょう。そうなった時、初めてわたしたちは神のみこころにかなった祈りを捧げ、恵みを受けることができる、とイエスは教えて下さっています。

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