2021年6月6日 (B年) キリストの聖体 典礼について

第一朗読  出エジプト24・3-8

これは主があなたたちと結ばれた契約の血である。

答唱詩編  詩編116・12+13、15+16b、17+18

このパンを食べ、この杯を飲み、わたしは主の死を告げ知らせる。

第二朗読  ヘブライ9・11-15

キリストの血は、わたしたちの良心を清めるだろう。

福音朗読  マルコ14・12-16、22-26

12除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。13そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。14その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』15すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」16弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。

22一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」23また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。24そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。25はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」26一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

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「これはわたしの体である」

キリストの聖体の祭日は、本来聖霊降臨後の第二木曜日ですが、日本のような非キリスト教国ではその次の日曜日に祝います。この日の福音朗読は、再び最後の晩餐のシーンに戻ります。イエスと弟子たちは、過越祭の習慣である種なしパンを囲んだ食卓についていました。

イエスの言う「体」は、原語では人間全体を指す言葉で、「これはわたしの体である」は、「これはわたしだ」という意味になります。これを食べることは、イエスと一つに結ばれることなのです。また「契約の血」は、第一朗読の出エジプト記248にあるように、約束を必ず守るという決意の証でした。イエスは、すべての人の救いのために死ぬということをここで宣言されています。

さて、誰かが真心を込めて準備してくれた食事を感謝して頂くとき、私たちは愛されていることを心から実感するものです。ましてご聖体を準備するために、イエスはどれほど大きな愛を注がれたことでしょう。神の愛で満たされたご聖体、神の愛の何よりの証であるご聖体を、心から感謝していただきたいと思います。

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