2021年3月14日 (B年) 四旬節第4主日 典礼について

第一朗読  歴代誌下3614-1619-23

主の怒りと憐れみは、民の追放と解放によって明らかにされる。

答唱詩編  詩編1371+23+4

エルサレムよ、おまえを忘れるよりは、わたしの右手がなえたほうがよい。エルサレムを思わず、最上の喜びとしないなら、わたしは口がきけなくなったほうがよい。

第二朗読  エフェソ24-10

罪のために死んでいたとき、あなたがたは恵みによって救われた。

福音朗読  ヨハネ314-21

そのとき、イエスはニコデモに言われた。14「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。18御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。19光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。20悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。21しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

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人の子も上げられねばならない

今日の福音では、イエスがファリサイ派の指導者ニコデモに、モーセと青銅の蛇のエピソード(民数記214-9節)をとおして語りかけます。エジプトを脱したイスラエルの民は荒地の毒蛇に苦しみますが、モーセが旗竿に掲げた青銅の蛇を仰ぎ見ることによって、命を救われます。そしてイエスは、青銅の蛇と同様にご自分も「上げられねばならない」と語ります。この「上げられる」は、十字架に磔にされることを意味します。神が、その独り子を十字架の死に渡されるほど私たちを愛されており、その愛を十字架上のイエスをとおして信じることによって、私たちの命は救われ、永遠の命を得るとおっしゃっているのです。

これほどの強烈な光に満ちた神の愛であっても、それに目を向け、信じるかどうかは私たちに委ねられています。闇に留まり、神の愛に背を向けること自体が「既に裁かれている」とイエスは言います。心の中にも、人間関係にも、社会にも、様々な闇が溢れています。闇の中で苦しんでいる人々の中に、神の光が射しこむよう祈りたいと思います。

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