2021年10月10日 (B年) 年間第28主日 典礼について

7時半、9時のミサ11時のミサでは典礼が異なります。ご注意ください。

 

【7時半のミサ、9時のミサ】

第一朗読  知恵7・7-11

知恵に比べれば、富も無に等しいと私は思った。

答唱詩編  詩編90・1+2+14、11+12、16+17

神のはからいは限りなく、生涯、私はその中に生きる。

第二朗読  ヘブライ4・12-13

神の言葉は、心の思いや考えを見分ける。

福音朗読  マルコ10・17-30

そのとき、17イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」18イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。19『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」20すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。21イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」22その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

23イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」24弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。25金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」26弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。27イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」

28ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。29イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、30今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」

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神の愛に応える知恵

今日の福音の冒頭で若者に「善い先生」と呼ばれたイエスは「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と答え、全てを超えて神の教えに立ち戻るように促します。その若者は律法で定められた掟は全て守ってきたと考えていました。しかし、蓄えた富を貧しい人々と分かち合う、つまりは隣人を愛するということができませんでした。

加えて、この若者は「永遠の命を受け継ぐには、何をすれば」ということを考えていました。しかし、私たちは自分たちを救うことはできません。神だけが私たちを救うことが出来るのです。偽りの富を捨て、神への信頼に生きることです。富に執着することと貧しい人々への愛、貧しい人々を愛する神に対する愛は相容れないということをイエスは伝えようとしていました。

主に信頼するなら、財産がなくとも、イエスに従って信仰の道を歩む際のすべての障害を克服することができます。針の穴を通ることもでき、天の国に入ることができるのです。

104日はアシジの聖フランシスコの記念日でした。本日も11時のミサはフランシスコ祭の意向を以って執り行われます。わたしたちもアシジの聖フランシスコに倣い、自然を愛し、清貧を重んじた生活が送れるよう、聖母マリアのお導きを祈りましょう。

 

 

【11時のミサ】

104日はアシジの聖フランシスコの記念日でした。今日の11時のミサは、フランシスコ祭の意向を以って教皇庁典礼秘跡省の認可を受けた固有の典礼にて執り行われます。

第一朗読  シラ50・1、3-7

フランシスコは、きらめく太陽のように、主の神殿の中で輝いた。

答唱詩編  詩編16・1-2a+5、7-8、11

神よ、わたしを守ってください。わたしはあなたのもとに逃れます。

第二朗読  ガラテヤ6・14-18

この世はわたしに対して十字架につけられ、わたしもこの世に対して十字架につけられている。

福音朗読  マタイ11・25-30

そのとき、イエスはこう言われた。25「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。26そうです、父よ、これは御心に適うことでした。27すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

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くびきを受け入れる

フランシスコ祭のミサではマタイによる福音書が読まれます。イエスは幼子のように生きる事が主の御心に適うと言われています。幼子は自分では何も持たず、何もできませんから、全てを他者に委ね、自然に任せるしかありません。逆に与えられるものを何も考えずに素直に受け取ることができます。

アシジの聖フランシスコが自然を愛し、清貧を重んじたのは、財産を蓄えるための知恵や賢さを捨て去ることで、こどものように神のみ言葉を受け入れられるような人になるという、今日の朗読箇所の内容と通じます。イエスは加えてイエスのくびきを受け入れ、重荷を負うことを求めます。不自由になるように思えますが、イエスのくびきは神の道を歩むためのくびきですから心地よく、また、イエスが助けてくださるのでその重荷も軽くなります。

今日の年間第28主日のミサの朗読箇所となるマルコ1017-27節でも、イエスは財産を蓄えることと主に信頼する事が相反すると指摘しています。わたしたちもアシジの聖フランシスコに倣い、自然を愛し、清貧を重んじた生活が送れるよう、聖母マリアのお導きを祈りましょう。

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