田園4月号 巻頭言

世の不快の中にも喜びの場所がある 2 協力司祭 ザベリオイドヤガ神父

先月号の「田園」ではパパフランシスコの人格や彼が書かれた回勅(勧告)の幾つかのポイントについて書きました。お読みになったでしょうか?今回も引き続き、回勅「福音の喜び」に載っている他の興味深い幾つかのポイントを抜粋し、パパフランシスコが考えているカトリック共同体が、現代社会の中で先入観なしに取るべき姿勢について書きます。

書くのは私ですが、書かれたものは私個人の意見ではなく、有名な神学者の意見や感想です。

パパフランシスコが見ている共同体
パパフランシスコは教会共同体について今までの立派な先輩や指導者たちを尊敬しながらも、これから先は少し異なった秘訣に立てられるべき共同体を見ているのです。パパフランシスコによりますと、キリスト教もカトリック教会も、ただの教えや教義に基づいた宗教や共同体としてではなく、「誰かとの一個人の根本的な出会い、逃避せずに誰かと戦って直面する元に作られた共同体」を考えているように見えます。

パパフランシスコの福音宣教のやり方を拝見するとヘブライ人への手紙を読みたくなります。「この大祭司(イエス・キリスト)は,私たちの弱さに同情できないような方ではありません」(ヘブライ4・15)

「この大祭司は自分自身弱さを身にまとっているので、無知な人や追っている人たちを思いやることができます」(ヘブライ5・2)。「大きな叫び声と涙をもって、祈りと願いをささげました」 (ヘブライ5・8)

パパフランシスコが見ているキリスト教の福音宣教
今まで伝統的な福音宣教は冷たい「頭の理性」を通して伝えられてきたが、これから先の福音宣教やすべてのキリスト教の教えは「心の温かい理性」をもって伝えるべきである。パパ様は言われます「キリストがつまらない計画の中で縛られてしまった。キリスト教による『創造性』がとり上げられてしまい、キリスト教の爽やかさ、憐れみ、優しさなどが殆ど見えなくなった。愛の対話を以てキリスト教の近さ、キリストとの出会いの必要がある」キリスト教は現在必要とされている喜びが、他でもなく、「キリストとの出会い」から発生される喜びである。現代の教会に欠けているものはキリストとの目と目、顔と顔、一対一の出会いの不足です。

「出会う」という言葉が現代の教会の基本である
先月号の田園で「自分から出会う」ということについて書きましたように、これはババフランシスコにとって今の教会共同体において大切なことです。目と目、顔と顔の出会いは深くなればなるほど福音宣教はもっと楽しくなり、お互いの間の壁はなくなり、全ての先入観を取り除いて自由な人となり、自然に教会共同体の諸々の問題も見えなくなります。しかし、自分自身から一対一で違う考え方を抱いている人々と出会いをするためには、[次が大事なこと!]

まず、自分とイエス・キリストの目と目、顔と顔の出会いを、毎日しない限り、教会共同体作りは高い理想に留まって、地上に降りて実現できません。キリスト者は「鳥」ではありませんから、空でではなく、また理想的環境の中でもなく、地上にあたえられた場所で人々と近くで出会うようにする必要があります。
パパフランシスコはドフトエフスキーの言葉を借りて言われます。「ナザレトのイエス様は抽象的な真理ではなく、活き活きしておられる真の命の真理であり、真の幸せの真理である」

イエス様は言われた「私は真理である。真理はあなた方を自由にする」

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