田園2022年10月号 巻頭言
田園2022年10月号 巻頭言
「絶えず祈る人々は幸いである」
協力司祭 アントニオ金東炫
私たちは夏の猛暑、COVID19の再流行、自然災害などの手怖い相手との戦いを乗越えて、心も体も豊かに満たされる収穫の秋を迎えました。秋といえば、読書の季節、思索の季節と呼ばれていますが、信仰をもって生活する私たちにとって秋は、何より祈りの季節と言えるのではないでしょうか。
祈りの達人と呼ばれている田園調布教会の守護聖人フランシスコの祝日をはじめ、母マリアと共に祈るロザリオの月、すべての死者を思い起こし共に祈る死者の月、そして来られる主を迎える準備の期間である待降節につながります。このように考えてみたら、秋は1年の終わりを準備する季節でもあります。
祈るという行為は霊的存在だけに許された特権で、生きておられる神との霊的対話です。神の子供たちが霊的存在として父に祈ることができるということは神の愛のしるしといえますが、私たちはどのように、何を祈るべきかをよく分からない時もあります。
しかし聖人たちの模範と聖書の言葉から祈りについて、いくつかのヒントが得られます。
神のたまものである祈り
祈りとは、「神に向かって心を高めることであり、神の恩恵を求めること」で、祈りというたまものを無償でいただくために必要な心構えである謙遜は、祈りの基礎となります。(カテキズム2559参照)
人間の普遍的召命である祈り
私たちはなぜ祈らなければならないのでしょうか。神をさがし求める人間は罪を犯し、創造主との親しい交わりを失った後も、創造主の似姿はとどめています。すなわち自分に存在を与えてくださった神へのあこがれを失ったわけではありません。
生きておられる方はご自分との交わりを失った人間に手を差し伸べ、お呼びになり、一人ひとりを祈りによる神秘的出会いへと招いておられます。
祈りとは、まず神の愛の呼びかけで始まるもので、祈るという人間の行為は、その愛の呼びかけへの応答になります。神がご自分を啓示し、その姿を明らかにされるにつれて、相互の呼び合い、契約のドラマとなっていくことが祈りと言えます。そのドラマは救いの歴史を通して明らかにあらわれています。(カテキズム2566~7参照)
祈りの原理
全能の神が行われるすべての偉大なわざを心に納め、思いめぐらしていた母マリアから、人間のことばと心で祈ることを学び、(カテキズム2599参照)人の心を見抜く御子イエス・キリストは「“霊”の思いが何であるかを知っており、“霊”は、御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださる。」という簡単明瞭な原理です。すなわち、「どう祈るべきかを知らないわたしたちに、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって」私たちの祈りを導いてくださるので、霊の働きに心を開き、その導きに自分を委ねることによって、“霊”は弱いわたしたちを助け、(ローマ8・26-28参照)祈りを教えてくださいます。
このように私たちの祈りは「神の霊の助けによって、現に見ているものを超えて、見えないものに対して」も、憧れ、望むことであり、私たちは神の霊に支えられ、様々な希望を祈り、感謝と賛美をささげるごとができるのです。(ローマ8・24-25参照)
そして私たちの祈りが完全なものとなるために何より重要なのは、祈ったことを実践することです。信じない人々は、私たちの言葉を信頼するのではなく、イエス・キリストを信じる人々の優れた生き方をみて、私たちの証言する真理を受け入れるのです。
10月は、私たちの母聖マリアと共にイエス・キリストの生涯と救いの歴史を黙想するロザリオの月です。偉大な魂の言語である祈りを通して神の限りない愛を深く味わい、心を合わせて賛美の祈りを響かせましょう。
「幸いである、絶えず祈る人々!」
※ 「田園」2022年10月号はこちらからご覧ください。