田園2019年6月号 巻頭言
田園2019年6月号 巻頭言
主のあわれみに生かされて
フランシスコ会修道士 バレンチノ豊田知彦
今年3月30日、荘厳誓願宣立の恵みをいただきました,この日を迎えるにあたり、祈りの花束をはじめ、多くの方々の祈りと支えによってここまで歩んでくることができました。あらためて感謝を申し上げます。
今までの自分の歩みについて思い返してみますと、召命の道を歩むためにフランシスコ会に入会した後のことだけでなく、入会するまでの人生の歩みにおいても、あまりに多くの人々の忍耐と優しさによって、私は今まで育まれ、生きてくることができました。召命が一人の人間の人生全体にまで及んでいるとすれば、神様のなさりかたは、なんとダイナミックでありながら繊細であることでしょう。しばしばスパルタ教育のような厳しさも感じることはありますが・・・
神様が人々にお与えになる召命というものは、人間には解明しきることができない深淵かおるように思います。それでも鈍い私が気づけたことがいくつかあります。それは、私が今まで自分で成し遂げたことなどは何もなく、自分に誇れる点など一切ないという事実に他なりません。私は優れた能力を持っているわけでも、篤い信仰を持っているわけでもありません。むしろ、修道会に入ってこの道を歩めば歩むほど、自分がいかに至らない存在なのかについて気づき、思い知らされる日々でした。自分のようなものがこの歩みを続けていいのか思い悩むこともありました。
しかし、そのようになんとか日々を歩む私を支えてくれる人々がいました。特に一緒に住んで歩んでくれるフランシスコ会の兄弟は、私に兄弟として生きることの素晴らしさを教えてくれました。「兄弟のように ともに住むのは美しく、楽しいこと。(詩編133)共に笑い、共に苦しみ、共に食事をすること・・・共に神様を頼りに生きること・・・祈っている兄弟の姿を見ること・・・こういったことが、私はたまらなく好きです。志願期・修練期・有期誓願期と進むにつれて、「兄弟として生きる」この生活を、私はより愛するようになりました。
時には神様がどこにも感じられない、先の見えない暗いトンネルを行くような苦しい時もありましたが、それでも神様は様々な仕方で私を支えて下さり、いつも共におられ、必要なすべてを与えて下さっていたのだと思います。主のあわれみによって、今日まで私は生かされてきました。その上で、神様は私自身の意志でこの道を歩み続けるのか、私に決める自由を与えてくださったのです。そこで私は、神様が与えて下さったこの道を歩み続けたいと望みました。
これまで度々温かいお言葉や励ましをくださりありがとうございます。これからも神様のすばらしさを心に留め、皆様と共に歩んでいければ幸いです。至らないものですが、これからもご指導のほどよろしくお願いいたします。