田園2019年11月号 巻頭言

田園2019年11月号 巻頭言

 

死者の月に思う

主任司祭 ドミニコ竹内正美神父

 

十一月を教会は「死者の月」と定め、そのために特に亡くなった人々のために祈るように勧めています。勿論、日々、祈ることも大切です。

 

私も身近に亡くした親、兄弟、親族、友人がいます。親しい人との別離は悲しいものです。これは例外なく誰もが経験することです。

 

悲しみも涙も、時間と共に癒されて行くことは有難いことかもしれません。しかし、だからと言って私から死が取り去られたわけではありません。

 

「死に盗人のごとく来る・・・」とイエス様は仰せになりました。
行方が分からなくなった少年イエスを探し回ったマリア様やヨゼフ様と同じように、その時、途方に暮れ、悲嘆に暮れてしまいます。

 

両親は三日目にイエス様が神殿にいるのを見出し、心配したマリア様にイエス様は言います。「どうして私をお捜しになったのですか。わたしが父の家にいるのは当たり前でしょう。ご存知なかったのですか」(ルカ2・45)と。

 

悲しみにくれる両親にイエス様は自分の所在をはっきりと知らせます。「わたしが父の家にいるのは当たり前でしょう」と。亡くなった入もイエス様と同じことを私たちに向かって言っているのかもしれません。「私が父の家にいるのは当たり前でしょう」。

 

しかし「両親はイエスが言われたことの意味が分らなかった」(ルカ2・50)。これはまた、イエス様が十字架上で亡くなった時にも弟子たち、婦人たちが悲しみに打ちひしがれ、三日目に婦人たちが墓に行きイエス様を捜したことにも通じるのではないでしょうか。み使いは、「なぜあなた方は生きている方を死者の中に捜すのですか。その方はここにはおられません。復活されたのです」(ルカ24・5〜6)。

 

最初の少年イエス様の両親への答えがここではっきりと示されていると私は思います。イエス様の復活は、死んだイエス様が神の生命に入られた出来事であり、そのイエス様の復活に私たちも与からせていただくと言うことなのです。

 

死者の中に亡き人を見出そうとする私に、「なぜあなた方は生きている方を死者の中に捜すのですか。その方は復活なさったのです」とのみ言葉が強く心に響いてきます。

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