田園2018年3月号 巻頭言
田園2018年3月号 巻頭言
偉大なる愛、イエスの死
助任司祭 アントニオ金東絃神父
「私たちがまだ罪びとであったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」 (ローマ5・8)
イエスの死は人類救済に関するすべての神のわざの頂点といえます。すなわち、賄いの死、その死による救済の完成、新しい次元(新しい命)へと導くための過程であったということです。それなら人間によるイエスの死の責任は誰にあるのでしょうか。
イエスの裁判とその責任・・「福音書の叙述に見られるように、イエスの裁判は歴史的に
は複雑な出来事でした。したがって、神だけがご存じてある裁判の当事者たち個人の罪がどうであろうと、イエスの死の責任をエルサレムのユダヤ人全体に帰すことはできない」(カ597)のが事実です。また「その血の責任は、我々と子孫にある。」(マタイ27・25)と群衆が叫んだからといって、その責任をすべてのユダヤ人にまで及ぼすことはできないのです。
第ニバチカン公議会はその責任について「当時と今日のユダヤ人すべてに無差別に負わせることはできません。ユダヤ人は神から排斥された者とか、のろわれた者とか、あたかも聖書から結論されるかのようにいってはなりません。」(キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言4参考)と宣言しています。
そして今日の教会は、「私たちの罪がキリストご自身を傷つけるという事実を念頭において、ためらうことなく、イエスの死の苦しみに対するもっとも重い責任はキリスト者にある」(力598)と述べ、アッシジの聖フランシスコは「悪魔たちさえ、主を十字架につけなかったのに、あなたが彼らと共謀して主を十字架につけ、今もなお悪徳や罪を楽しむことによって十字架につけています。」とキリスト者一人ひとりに問いかけています。
イエスの代贖的死・・イエスの死はさまざまな事情が不幸に絡み合った偶然の結果ではなく、神による人類救済の計画の神秘に属しています。それなら、イエスの死刑の同調者たちは御父が書かれた脚本を受動的に実行したことに過ぎないのでしょうか。
神の永遠のご計画は人間の自由応答、自由意志を排除していません。それで使徒はこのように告白します。「ヘロデとピラトは異邦人やイスラエルの民とともに、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らって、この都で徒党を組み、み手とみ旨によってあらかじめ起こると定められていたことを、ことごとく行いました。」(使徒行録4・27〜28) 神は、ご自分の救いの計画を実現するため、人間の無分別から生じる行為を妨げなかったのです。
故に、イエスの死は聖書に預言されているとおり、神の救済の計画による「普遍的あがないの神秘、すなわち人間を罪の奴隷の状態から解放するあがないの神秘」(カ601)としての死であり、ご自分の「計画が私たちの功績に先だついつくしみの愛、だれをも除外しない愛」(カ604〜605参考)であるといえるのです。
結果的にイエスを救い主と告白している私たちにとって十字架上のその死は、「神の小羊による人間の決定的あがないを成就した追越のいけにえであると同時に新しい契約のいけにえ」(カ613参考)、すなわち「奉献と賜物」という二つの意味を示す
出来事となるのです。
イエスは「私について来たい者は、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」(ルカ9・23)と言われました。故に、イエスの死を思い起こし、その教えを実践する弟子の道は、解放と自由に至る唯一の道である十字架を、イエスと共に受け入れ、背負おうとする勇気から始まるのではないかと思います。
注 カ=カトリック教会のカテキズム