田園2018年2月号 巻頭言
田園2018年2月号 巻頭言
回心の時
助任司祭 アウグストヌス桑田拓治神父
2月14日「灰の水曜日」から、教会は「回心の時」である四旬節を迎えます。
自分の罪を認め、悔い改め、神に立ち返る時とも言えるかもしれません。
「悔い改め」や「回心」の根底には神の「慈しみ」が存在しています。もし神の愛から切り離されて、自分の罪を見つめるなら、そこには絶望が待ち構えているのではないでしょうか。
聖フランシスコも回心の最初の頃は自分たちのことを「アシジの改悛者」と呼んでいました。フランシスカンの霊性の根底には神に向かって「絶えざる回心」の歩みがあるのです。
私たちは「回心」「悔い改め」というと断食や苦行を思い浮かべ、辛くなるかもしれませんが、聖フランシスコは違っていました。
彼が書いた「勅書によって裁可されていない会則」第三章には「主は言われる。『この種の悪魔は、祈りと断食によらなければ、決して追い出すことはできない』、『断食するとき、あなた方は偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない』と」。また小さき兄弟としての生き方として8章に「兄弟だらけ、隠遁所々その他の所のどこにいても、いかなる所も自分のものとしないよう、また、それについて、だれとも争わないよう注意しなければならない。そして、友人または敵、盗人または強盗など、だれが兄弟たちのもとに来てもあたたかく迎えなければならない。兄弟たちは、どこにいても、また、どんな所で出会っても、心をこめて愛情深く挨拶し合い、『互いにつぶやくことなく』尊敬し合わねばならない。
偽善者のように沈んだくらい顔つきをせず、『主において喜ぶ者』、快活で心底から寛大なものであることを示さねばならない」と記されています。
この根底には神の慈しみに対する深い信頼があったのだと思います。
この聖フランシスコの霊性に習うならば、私たちの「回心の時」も喜びにあふれたものになるのではないでしょうか。
それは自分の欠けているところ、出来ないことに注目するのではなく、日々の中で神様から頂いている恵を心にとめ、感謝を深め、喜びと感謝の折りを神様に捧げることなのです。
教皇フランシスコも1月8目のツイートで「喜び、祈り、感謝こそが、本物の人生を歩行ための三つの態度です」と述べられています。
この回心の歩みを続けるために、私たちは荒れ野に退く必要はありません。
自分か召命を受け、派遣された場所、すなわち家庭において喜びと感謝と折りのうちの歩みを続ければ良いのです。
この霊性に基づいて尊敬のうちに家族と生きるとき、家庭生活は奉献生活に勝るとも劣らない聖性の学び舎になり、私たちは「主において喜ぶ者」として生きることが出来るようになることと思います。