田園2017年8月号 巻頭言
田園2017年8月号 巻頭言
陰口は分裂を招く罪
助任司祭 アウグストヌス桑田拓治神父
この刺激的な見出しは6月4目付のカトリック新聞一面に掲載されたフランシスコ教皇の言葉です。フランシスコ教皇は5月21日夕方、ローマ郊外の小教区で司式したミサの説教の中でこの言葉を口にされたのです。このことからも、この言葉は教義や神学と言うよりも、教皇の牧者としての司牧的言葉であり、私たちに具体的に語りかけられた霊的な糧と考えられます。「本当に私はこのことで心の奥底まで痛みを感じます。まるで私たちが互いに石を投げ合っているようなものです。それで喜ぶのは悪魔です。悪魔にとってはお祭りです。」
小教区で頻繁に犯されている罪は、互いに悪口を言い合い、裏切ることなのです。この罪は共同体を分裂させるだけでなく、神を求めて訪ねてくる人を遠ざけてしまうと、フランシスコ教皇は警告しておられます。
教皇がこの日司牧的訪問をした小教区が特別に分裂や問題を抱えていたと言うことではなく、私たち一人一人に語りかけておられる牧者の呼びかけなのではないでしょうか。
そうあるなら、この教皇の言葉をカトリック田園調布教会の私たちも、この牧者の問いかけを自らに問いかけなくてはならないのではないでしょうか。
基本的にキリスト者は善意の人たちだと思います。また多くの方が誠実で、熱心で、責任感のある方が多いように思われます。修道者である私の方がいい加減で適当な在り方をしているような気がしてしまいます。
しかし、誠実であればあるほど、熱心であればあるほど、責任感が強ければ強いほどに、時として自らの判断と価値観を絶対視してしまうことがあり、そのとき私たちは心の中で人を裁いてしまうことが見受けられるのではないでしょうか。
自らの視点に囚われすぎるがために、相手からの視点を見落としてしまうのかもしれません。自らの体験と実感に囚われて相手がどう感じているかを見落としてしまうのかもしれません。教皇によればそれこそが悪魔の囁きなのです。
教皇はある小教区の主任司祭から聞いた話として、「何人かの信者は陰口のたたき過ぎで舌が長くなり、その人たちは聖堂の入り口からでも聖体拝領ができ、その舌は祭壇に届くほどだったと言います」。教皇は「これこそが私たちの共同体を破壊する敵、無駄話です」と指摘し、「私たちキリスト教共同体で最も多い罪です」と付け加えられました。
私たちの言葉はどうでしょうか?キリストと聖霊の愛に満たされた「優しさと敬意に満ちた言葉」でしょうか?それとも陰口や無駄話でしょうか?教皇は私たち一人一人に問いかけ、聖霊に満たされた言葉を身につけるようにと招いておられるのだと思います。
このことは誰かから指摘されて変えられるのではなく、私たち自身が気づき、聖霊に折ることによって初めて変えられて行くことなのです。私白身も自らの言葉を顧み、聖霊の恵みを折りたいと思います。