田園2016年7月号 巻頭言
田園2016年7月号 巻頭言
教会の姿
主任司祭ドミニコ竹内正美神父
不義理または不面目などで、その人に会えない気持ちを指して「敷居が高い」と言います。確かに人は誰でもそういった負い目を持っているのではないでしょうか?
人間関係の気まずさ、ぎくしゃくした中で段々と疎遠になってしまいます。どちらかが行動を起こさなければその関わりは失われてしまいます。
何かの機会にお互いが顔を合わせ、言葉を交わすことによってより良い関係を取り戻すことが出来るのです。
初めて教会を訪れる人は異口同音に、「教会の中に入っていくのをためらってしまう」という声を聞きます。教会という建物に入るのをためらうということではなく、教会の集いの中に入ることを言っているのではないでしょうか?
不義理や不面目なことをした訳でもない初めての人たちが、どうして「教会はどうも敷居が高くて」と言うのでしょうか。
言われてみると、どうみても「敷居を高く」しているのは受け入れる側の私たち信者さんではないでしょうか?
教会を訪れる人たちばかりでなく、信者さんの中にも、教会に来て教会のいろいろの行事に協力できない心苦しさを常日頃から心に思っている人々も、教会にいろんな事情でこれない人々も心の中で教会(信仰)を忘れないでいる人々もいるでしょう。
しかし、この人たちにもまた「教会の敷居が高い」思いをさせているのではないでしょうか。
だとするとだんだん教会に足が向かなくなって疎遠になってしまうかもしれません。
ある司祭はこう述べています。
「湯たんぽは、布団の中を温めるが外は温めない。教会が愛の共同体という理由で、内だけを温めるならば、それは湯たんぽ共同体である。互いの傷を舐め合うだけならば、それも湯たんぽ的馴れ合いとなり、キリストの愛の中で真のパスカ(過越)の喜びを体験することは出来ないだろう」と。
教会の中だけでなく、外にも目を向け、疎遠になった人々との関わりを今一度考えてみる必要があるのではないでしょうか?
私たちの頭で、手で、口で、足で「教会の敷居の高さ」を取り払いましょう。やらなかったことの怠りを反省し、これから皆さんと気持ちを一つにして行動に移して行きましよう。
六月十二日付けのカトリック新聞に教皇フランシスコの記事が載っていました。
「良い羊飼いのように、良い司祭は自分の時間を私物化せず、一人きりになろうと求めず、むしろいつでも見矢った羊を捜すためにあらゆる危険をいとわない」と教皇フランシスコは「いつくしみの特別聖年の司祭と神学生の集い」を締めくくるミサで語っていました。
心にしっかりと受け止めてまいりたいと思います。