田園2016年3月号 巻頭言

田園2016年3月号 巻頭言

召命

助任司祭 アウグストヌス桑田拓治神父

 

今年は「いつくしみの特別聖年」を迎えています。教皇フランシスコの「いつくしみの特別聖年のための祈り」の冒頭に「主イエス・キリスト、あなたは、わたしたちが天の御父のようにいつくしみ深い者となるよう教え、あなたを見る者は御父を見る、と仰せになりました。み顔を示してくださればわたしたちは救われます。あなたの愛に満ちたまなざしによって・・・」とあります。

イエスこそがいつくしみ深い御父をしめすイコンであり、イエスのまなざしによって初めて私たちは罪から解放されるのです。このいつくしみ深いイエスのまなざしに生かされる者こそが聖フランシスコの平和の祈りにあるように「慰められるより慰めることを」「理解されるより理解することを」「愛されるより愛することを」求めることが出来るのではないでしょうか。
まず自分が神から愛され、いつくしまれ、与えられていることを感じてこそ、他の人を愛し、いつくしみ、与えることが出来るのだと思います。
私たちが信仰に招かれたのは「天の御父のようにいつくしみ深い者となるよう」招かれていることを心に深く刻まなくてはいけないのだと思います。
このイエスの「いつくしみのまなざし」に生かされることこそが、キリスト者の信仰の原点であり、霊性であり、召命の源泉なのではないでしょうか。
しかし、日本カトリック教会における召命の減少が言われるようになってから20年ぐらいが過ぎようとしています。

こうした「召命」の減少は日本の教会にとって大きなチャレンジであることは間違いないと思います。召命の減少という「時のしるし」をどのように受け止めていくのか、どうして日本の教会から召命が生まれないのかを見直すことが必要なのだと思います。
召命は誰かが生きれば良いものではなく、一人ひとりが「神のいつくしみのまなざし」に生かされ「愛されるより愛することを」を生きようとする共同体に与えられるものだからです。
私たちは奉仕する喜びよりもサービスを受ける気軽さを選んでしまっていないでしょうか?あとわすかの四旬節を神のまなざしに心を向けて、自分がどう在るべきか、在りたいのかを思い巡らして御復活に準備をしたいと思います。

「暗いといって不平を言うよりも進んで明かりをつけましょう」

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