田園2016年12月号 巻頭言
田園2016年12月号 巻頭言
あなたのために今日、救い主が生まれた
協力司祭トマス小平正年神父
カトリック教会の昔の典礼文には次のような祈りがあります。「世界の創造から5199年後に・・・出エジプトから1510年後に・・・ローマ帝国興国から752年後に・・・皇帝オクタヴィアヌス・アウグストウスの治世42年目に・・・イエス・キリスト、永遠の神であり、永遠の御父なる神の御子は、ご自分の恵みあふれる来臨によって世を聖化することをお望みになりました。
イエスは聖霊の力によって受胎されました。そして9か月後にイエスはベツレヘムでユダ族として聖母マリアから人間としてお生まれになりました」。
私はこの典礼文を目にしたとき、今日「信仰の油注ぎ」と呼ばれるようになった経験、つまり、思いがけないある種の清澄な意識に促されて「その通りです!神は本当にこの世に来てくださったのです」と思わず叫んだのです。予想外の感動のうねりが私を満たしたので、わたしは「至聖なる三位一体よ、感謝いたします!神の母なる聖母マリアよ、感謝いたします!」と思うことしかできませんでした。
① 平和と喜びを願い求めるとき
2千年前も人々は激動の時代を生き平和を必死に求めていたに違いありません。だからこそイエスは平和の君として福音を説くべく公生活の初めにこの要請に答えたのでした。
今までにない新しい教えにキリストのもとには多くの人々が殺到しました。福音書に出てくるイエスは一人一人に尋ねたのです。つまり、「何を求めているのか?」「何を望むのか?」、「どうしてほしいのか?」というイエスの問いかけに、人々は自分たちのねがいを懸命に訴えます。願いを聞き入れられた人々にイエスは言います。「あなたの信仰があなたを救った。安心していきなさい」と。
イエスのいつくしみはさらに霊的な部分にまで及んでいきます。すなわち「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、歩け』と言うのと、どちらが易しいか」(ルカ5.23)という福音のくだりはこれをよく表しています。主は私たちの罪をも許してくださるのです。
②初代教会において
教会はその歴史の最初においてすでに多くのトラブルに巻き込まれていました。聖毎に次のようにあります。「あなた方のうちに、苦しんでいる人がいるなら、その人は祈りなさい。喜んでいる人がいるなら、その人は賛美の歌を歌いなさい。あなた方のうちに、病人がいるなら、その人は教会の長老たちを呼び、主の名によって油を塗って祈ってもらうようにしなさい。
信仰による祈りは、病人を救います。主はその人を立ち上がらせ、もし、その人が罪を犯しているなら、その罪は赦されます。あなた方が癒されるために、互いに罪を告白し、そして祈り合いなさい。
正しい人の祈りは大きな力があり、効果があります」(ヤコブの手紙5・13~16)。あらゆる困難にあって信者たちは互いに助け合っていたのです。
③ミサ聖祭の犠牲の上に成り立つ
和解
したがって、キリスト教的な和解とは神による恵みにほかなりません。人間にはできなくても、神にお出来にならないことはないのです。神は私たちのことをよくご存じだからです。
「罪を除いて私たちと同じになってくださったキリスト」は、喜びも悲しみも痛みも感じることのできる、真の人間でもあったのです。
さらに聖書には、「誠に彼は私たちの病を担い、私たちの苦しみを背負った。(略)彼の上に下された懲らしめが私たちに平和をもたらし、彼の傷によって私たちは癒された」(イザヤ書53・4~5)とあるように、主イエスの十字架の犠牲こそが、私たちに平和と和解をもたらしました。
④救い主であるキリストの喜び
イエスのご生涯は人々に喜びを告げることでした。「私の喜びがあなたたちにあるように」(ョハネー5・11)とおっしやっています。また「あなたたちの心は霖ぴで満たされるであろう」(ヨハネー6・24)とも、おっしゃっています。
福音という言葉自体がよい知らせを意味しています。つまり喜びの訪れであります。「私が来たのは命を豊かに得させるためである」(ヨハネーO・10)とイエスはおっしやっています。生命の満ち満ちているところに喜びがあります。
イエスは『あなた方は幸いである。小躍りして喜べ』(マタイ5・12)とおっしやっています。私たちはそれを味わいましょう。
聖パウロも次のように言って弟子たちを励ましています。「いつも喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(フイリ4・4)。喜びはまた努力によって花咲かさなければなりません。「どんな苦しみにあっても、この上なく喜びにあふれているのです」と聖パウロが言っている通りです。