田園11月号 巻頭言
召命自らの信仰を生きる
助任司祭 アウグスティヌス 桑田拓治神父
先日十月五日、フランシスコ会の兄弟フランシスコ今井慶さんが、田園調布教会大聖堂で荘厳誓願官立のお恵みをいただくことが出来ました。フランシスコー粒会をはじめ、多くの方々のお祈りと励ましに感謝申し上げます。
一人の修道者が誕生することは、本人の個人的召命にとどまらない、教会に与えられた恵みであるとも言えると思います。なぜならば司祭、修道者の召命は普遍的教会の善益へと向けられて与えられるものだからです。
この意味において司祭、修道者の召命は個人的であると同時に共同体的性格を持っています。教会共同体は召命を生み出す母体なのです。今回の荘厳誓願式に列席して下さった多くの方から「はじめて参加しましたが、本当に良かったです、感勤しました」とのお言葉をいただきました。一人の人間が修道者として、自らの召命を生き抜く覚悟を決め、神に誓いを立てる場に立ち会えることは恵み深い体験なのだと思います。
なぜ一人の人間の決断が私たちの心に感動を与えるのでしょうか。それは彼の決断が私だちと不連続なものではなく、キリスト者としての普遍的召命という観点から言えば、すべての人が神からの招かれているという召命の連続性と共通点を持っているからなのだと思います。だからこそ一人の人間の決断が、他の人の召命を鼓舞し励ますことが出来るのではないでしょうか。
司祭、修道者の召命とキリスト者の召命は、主イエス・キリストに深く結ばれる洗礼という共通の源泉から生まれるものなのです。また、すべての召命の源泉には洗礼と共に「あなた方は、私を何者だというのか」というイエスからの問いかけが存在しています。
この問いかけに対して生涯をかけて応えていく事が、自らの召命を生きていくことにつながっているのではないでしようか。荘厳誓願宣立に立ち会う事は、必然的に自らの信仰と召命を見つめ直す事へと繋がっているのだと思います。
十一月二十四日「王たるキリスト」の主日を持って信仰年の幕が閉じられようとしています。信仰年を通して、私たちが求められたのは、自らの信仰を見つめ直し、再びキリストに従う生き方を選び直し、自らの召命を刷新することだったのではないでしょうか。信仰年の幕は閉じられますが、私たちが自らの召命を新たに歩み始める幕開けとなることを心から願っております。