田園2017年11月号 巻頭言

田園2017年11月号 巻頭言

死者も生者も皆教会の構成員
助任司祭 アントニオ金東鉉神父

『人間はただ一度死ぬ』(ヘブライ9・27)十一月死者の月は、地上での生涯を終えた人々のために析る時でありながら、一度は迎える死について考え、今を生きる意味を深める月と言えます。
「死者の月」を迎えた今回は、死者を記念する教会の行為の根拠と意味について少し覗いてみたいと思います。

・聖書に記されている人間の死
『心に留めてください。わたしがどれだけ続くものであるかを。あなたが人の子らをすべていかにむなしいものとして創造されたかを。命ある人間で、死を見ないものかおるでしょうか。陰府の手から魂を救い出せるものがひとりでもあるでしょうか。』(詩089・48〜49)
「旧約聖書」は死の起源をアダムとエバの犯罪、そしてその報いとみています。そして人間の死については、与えられた楽園から希望のない世界に移っていく現象とみていながら、『世のすべての者かたどる道』(列王上2・2)『わたしたちは皆、死すべき者であることを思え』(シラ8・7)など、すべての人に追ってくる一般的、普遍的できごとと語っています。
また、人間の経験可能な事実に基づいて、神と人間の関係を信仰に結びつけ、神の祝福として理解する部分も見つかります。

「新約聖書」では、罪の結果としてすべての肉体的要素がなくなること、そしてできごとであると同時に状態としてみています。それはイエスの死が復活につながり、終末的事件として、「今」始まるが、「完成」は終末の時と理解しているからです。
復活と神の国での幸いに向かう準備の段階としての死は、人生の完成に向かう過程、永遠の命の始まりとなります。

・生者が死者を記念する教会の行為
死者を記念する行為が成立できる根拠は、「生者は死者のために祈ることができ、その折りが死者の教いに役立つ」という教会の伝統的思想から見いだされます。
何より、教義である「聖徒の交わり」は、死者の記念という行為を理解する最も重要な根拠となります。すなわち、始まりもなく終わりもない超越者、絶対者のみ前で時空開という概念が無意味であるように、神の国は、イエスを頭とする普遍的、聖なる共同体であり、この共同体には、先にこの世を去った人々も、今この世の旅を継続している人々も同一の構成員となります。
故に、私たちは頭であるイエスの肢体という連帯を通して、生者も死者も同じ共同体に属する者となり、死者のための祈りと神の国からの仲介の祈りが可能となるのです。

・死から見出す希望
信じる者の死は、『キリスト教における過越の性格をより明らかに表現』しています。(典礼憲章81)キリストのいない人間世界の死は、暗闇に沈んでいる状態になるが(マタイ4・16 ルカ1・79参考)、キリストはご自分の復活をもって『死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現して』(2テモテ1・10)、死を呪いから祝福に変化させました。
それゆえ信じる者の死は、イエスの死につながるようになり、人生の完成、救済の可能性が開かれる希望の事件となるのです。
死者のためのミサの叙唱はこのように歌っています。
『信じる者にとって死は滅びではなく、新しい命への門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠のすみかが備えられています。』

天に召された方々のための祈りと死についての黙想は、旅先の向う側にある永遠の希望を眺めること、生きることについての黙想であり、人生の完成を準備する行為であります。
人間の死について肯定的姿勢をもって死という現象と向き合い、黙想していくうちに、生きることの意味と信仰の理解が深まる十一月になるのではないかと思われます。

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