2021年5月2日 (B年) 復活節 第5主日 典礼について

第一朗読  使徒言行録9・26-31

バルナバは、サウロが旅の途中で主に出会ったことを説明した。

答唱詩編  詩編22・26+27a、28a+27b+28b+29、31b+32

神に向かって喜び歌い、感謝の歌をささげよう。

第二朗読  ①ヨハネ3・18-24

神の掟とは、わたしたちが信じ、愛し合うことである。

福音朗読  ヨハネ15・1-8

ヨハネによる福音

そのとき、イエスは弟子たちに言われた。1「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。2わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。3わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。4わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。6わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。7あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。8あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」

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キリストはぶどうの木

今日の福音は、最後の晩餐の席でイエスが語ったぶどうの木のたとえです。

イエスはご自身を木に、弟子たちをその枝にたとえ、弟子たちに木につながっているように教えます。ここで「つながる」と訳された言葉は「とどまる」という意味も持ちます。ぶどうの木というのはたくさんの枝でできていて、それ全体が木だといえます。枝はそこにとどまっていなければもはやぶどうの木とは言えなくなります。このたとえは我々がぶどうの木の構成要素である枝としてそのつながりの中に生きていることを悟らせ、木であるイエスから栄養である愛を受け取るだけではなく、他の枝、隣人に対して栄養すなわち愛をつなげることの必要性に気づかせてくれます。そして、今、この時代に生きている我々、一人一人がぶどうの枝として木にとどまり、互いに愛し合うことができるのは、今も生きているイエスとのつながりがあるからだと確信できるようになります。

このように、復活節は、復活して今も生きているキリストとの深いつながりを味わう季節と言えます。これからもイエスが共にいてくださることを、そして我々が一つのぶどうの木にとどまることができるように、祈りましょう。

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