田園9月 10月号 巻頭言

五島巡礼で信仰年を思う

 

主任司祭 ドミニコ竹内正美神父

 

梅雨の明けた七月ハ日より十一日までの四日聞、五島巡礼の旅をして参りました。巡礼こ意味は、イエス様に従う道を確認するたえてあじ、イニス咲やイエス様と共に生きた優良者こ歩んだ道をたどる旅だといえます。

巡礼は、「イエス様や信仰者の証しによって見えてくるキリストの生き様、歩みを思い起こし、イエス様を感じ、イエス様と共に歩むことを知ることだ1‐と思います。

初めに簡単に五島キリシタン史を述べます。

一五六六年五島にもキリスト教の伝道が開始され、三〜四〇年の間にかなり広まったが、秀吉のバテレン追放令後、衰退。江戸幕府の禁教令の頃には五島の教会は崩壊する。

その五島をキリシタンの島として復活させたのは、五島から大村藩に向けての移民の中し入れであった。大村藩は昔からキリシタンが多く、その摘発と厳しい弾圧は過酷であった。

また大村藩外海地方は、狭く貧しい土地で人口抑制政策(強制的な間引き)も行われていた。そこで外海地方の潜伏キリシタンは比較的キリシタン摘発も緩いと言われる、新天地五島への移住を希望する者が相次いだ。

外海地方にこんな俗謡が残っている。

「五島へ、五島へ皆行きたがる。五島やさしや土地までも」 一七九七〜九九年の間に約三千人が移住し、そのほとんどがキリシタンであったと見られている。

しかし実際五島に渡ってみると確かにキリシタンについては寛容であったかもしれ

ないが、生活の苦しさは何ら変わるものではなく、むしろ苦しいものであった。唯一キリシタン信仰だけが、彼らの救いであったのである。そんな苦しい状況の中で「五島は極楽。来てみりゃ地獄。二度と行くまい五島が島」に歌い変えられたという。

(五島キリシタン史より)

明治政府になってからも、すなわち一八七三年のキリシタン禁札の撤廃まで言語に絶する迫害、拷問の数々が吹き荒れたのも五島キリシタン史に欠くことの出来ない事実です。

 

巡礼を通して気付かされたことは、何よりもキリシタンたちの信仰への熱い思いが各巡礼地の雰囲気の中で触れることができ

たことです。そのキリシタンたちが信仰の自由を得た後の信仰態度にはびっくりさせ

られました。迫害する側に立っていた人々と迫害を受けたキリシタンたち「加害者と被害者」が共に共同で生活を営んでいることは考えられないことでした。赦すが故に成り立つ風景が現在に至るまで続いているのは、やはり信仰の力から来るもの「赦すがゆえに赦される」キリストの言葉が生きていたのです。

昔の牛リシタンたちは巡礼する私たちに「人生の根源的な問い掛けをされている」と感じました。

『毎日の日常生活の繰り返しの中で、あなたはどのように信仰を生きていますか?あなたはどのように人生の締めくくり「死を」考えていますか?あなたの残された人生を信仰と結び付けてどのように考え、どのように生きてゆくつもりですか?私たちキリシタンは形だけの宗教を信じているわけではありません。信仰はキリシタンである私たちにとって生きるか死ぬかの真剣勝負でした。私たちキリシタンは、今とは違って信仰のために命や財産を失う危険の中で生きていました。私たちキリシタンは生活環境を変えてまでも信仰を生きることに賭けてきたのです』。

この根源的な問い掛けを現代の私たちに投げ掛けているように思いました。

 

聖パウロは言っています。「あなた方は罪と戦っていますが、まだ血を流すほどの抵抗をしたことはありません」(ヘブライ人への手紙12,4)。主は罪人の反抗をしのばれ血を流されました。キリシタン時代の人々もそうでした。私たちにとって耳に痛い言葉ではないでしょうか?あなた方はまだ迫害によって血を流したことがないし、罪と戦ったことがないではないかと指摘しています。

自分の信仰を今一度見つめ直しては如何でしょうか?

私にとって今回の巡礼は「信仰年」と重ね合わせて自分の信仰を見つめ直す良い恵みの機会となりました。神に感謝。

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