田園2022年4月号 巻頭言

田園2022年4月号 巻頭言

ミサと癒し

協力司祭 トマス 小平正寿神父

語源について

「傷が癒える」とか「いやしの湯」とか、よく耳にすると思いますが、同時に「自然はいやす」という昔からの言い伝えがあって、ラテン語で「natura sanat」と言い、sanatは、いわゆる sanatorium(サナトリウム) の語源になっています。東京近郊の山の中腹には、大きなラテン文字でNATURA SANATと彫られた巨岩がありますが、これを発見した時には「わが意を得たり」と思いました。確かに、森林浴という言葉があるように常に自然に囲まれながら生きていければ人間にとって最良のことかもしれません。さて、欧米でよく使われる病気見舞いのカードには、「get well soon(英語)」とか「prompte guerison(仏語)」というのがあって、これには「早く良くなってください」という言葉が使われています。興味深いことは、ヴァチカンが出版した「カトリック教会の教え」の中で「いやし」という言葉を使って秘蹟についての項目を扱っていることです。私の持っているイタリア語版の中では「guarigione」と言う言葉が使われていますが、これはフランス語のguerison,英語のhealingに相当するものです。

現代の傾向

現代は「いやしの時代」と言っても過言ではないでしょう。書店に入るといわゆる「いやし」に関する本とか、「いやしグッズ(CDDVD,音楽など)」で溢れています。これらのものは必ずしも病気の方向けのものではなく、むしろ寂しさを抱えて生活している高齢者とか一人暮らしの方々のためでもあって、声をかければ、ワンワンと言いながら寄ってくるぬいぐるみの犬とかもあるのです。

大自然は人を癒す 

今でも、田舎に行くと、清らかな水に、温かな太陽に、恵みをもたらす雨に、手を合わせて感謝する人々がいます。その光景を見るとほっとします。まだ人間の心が残っていると思います。朝早く起きて、野良仕事に出かけ、日没とともに家に帰るのです。そこには、都会のような喧騒はなく、群衆もいません。その代わりに、大自然と面と向かって生きている人たちがいます。心から本音で会話する数人の仲間がいます。その仕事のきつさにもかかわらず、元気です。大自然というおおきなふところに抱かれて癒されているからです。
それが都会であろうと田舎であろうと、もしあなたが心のうちに神をいただいていたら、人生はどんなに変わることでしょう。大自然にもっとも近い方こそ神だからです。

イエス・キリストの時代

医学が今のように発達していなかった2000年前には、人々はいやしを必死に求めていたに違いありません。だからこそ、キリストは公生活の初めに、まずこの要請にこたえたのでした。いやしを下さるキリストのもとには多くの人々が殺到しました。福音書に出てくるイエスと病人との会話にはいつも何か共通のものがあります。つまり、「何を望むのか?」、「どうしてほしいのか?」、と言うイエスの問いかけに、「目が見えるようになりたいのです」とか「子供が死にそうです、来て治してください」など、いやしの願いを懸命に訴えます。いやされた人々にイエスは言います。「あなたの信仰があなたを救った。安心していきなさい」と。イエスのこのいやしは更に霊的な部分にまで及んでゆきます。「『床をとって歩け』と言うのと、『あなたの罪は赦された』と言うのと、どちらが易しいか」という福音のくだりはこれを良くあらわしています。

初代教会において

教会はその歴史の最初においてすでに「癒しの式」を行っていました。聖書に次のようにあります。「あなた方のうちに、苦しんでいる人がいるなら、その人は祈りなさい。喜んでいる人がいるなら、その人は賛美の歌を歌いなさい。あなた方のうちに、病人がいるなら、その人は教会の長老たちを呼び、主の名によって油を塗って祈ってもらうようにしなさい。信仰による祈りは、病人を救います。主はその人を立ち上がらせ、もし、その人が罪を犯しているなら、その罪は赦されます。あなた方が癒されるために、互いに罪を告白し、そして祈り合いなさい。正しい人の祈りは大きな力があり、効果があります」(ヤコブの手紙5・13-16)。

ミサ聖祭の犠牲の上に成り立つ癒し

したがって、キリスト教的ないやしとは神によるいやしにほかなりません。人間にはできなくても、神におできにならないことはないのです。神も痛みを知っているからです。「罪を除いて私たちと同じになってくださったキリスト」は喜びも悲しみも痛みも感じることのできるまことの人間でもあったのです。さらに聖書には、「まことに、彼はわたしたちの病を担い、わたしたちの苦しみを背負った。彼の上に下された懲らしめが私たちに平和をもたらし、彼の傷によってわたしたちは癒された」(イザヤ書53・4-5)とあるように、主イエスの十字架の犠牲こそが私たちにいやしをもたらしました。癒し主が打たれることによって、わたしたちに癒しがもたらされました。これは私たち人間には理解しにくい「神の痛みの神秘」であります。全能なる神が私たちの癒しのために自ら痛みをお引き受けになったのです。

秘蹟と癒し

秘蹟は特に神の救いのパワーのチャンネルとして選ばれたので、それらが癒しのチャンネルであることに不思議はありません。病者の塗油、ゆるしの秘蹟そして御聖体の三つの秘蹟は特に癒しに向けられています。そして叙階の秘蹟は癒しの力を司祭に与えます。また、わたしはしばしば洗礼の秘蹟が人々を癒すのをこの目で見てきました。

ここで、特に病者の塗油についてご一緒に考えてみたいと思います。ご存知のとおり、以前は「終油の秘蹟」と言われていましたが、これではまるで亡くなる直前にしか施されない印象を与えます。典礼の刷新によって、秘蹟の目的は「癒し」にあると宣言されました。教皇パウロ世は「ヤコブの手紙に照らし合わせて、秘蹟の効果が十分に表明されるように秘蹟の書式を変更することがふさわしいと思う」(病人のパストラルケヤーと塗油:研究テキスト :1973年度典礼に関する米国司教委員会発行、および、使徒的憲章の聖なる塗油からの引用)と述べられました。

上に述べた変更は第二ヴァチカン公会議の典礼憲章第73番によって施行されました。このようにして、「終油の秘蹟」から「病者の塗油」へと名称が変わったのです。

参考までに、旧教会法と新教会法の比較をここに載せてみましょう。「最終の塗油は、信者が理性を働かせるに至った後、病気、または高齢のために死の危険にあるときでなければ、これを施すことができない」(旧教会法第940条第1項)。「理性を働かせるに至った後、病気または老齢のために危険な容態が始まっている信者に病者の塗油を執行することができる」(新教会法1004条第1項)。確かに言葉の持つニュアンスが変わってきています。

本当の癒しを求めて

人生の目的はただひとつであって、それは神の愛の真実を知り、さらにそれを深く体験することであり、それなしにはわたしたちは人生の最終目標を見失ってしまうでしょう。わたしたちの人生の法則はこれです:つまり、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。これがわたしたちの人生で最も重要な第一の掟です。神がわたしたちから愛されるべき存在であることを理解するのは難しいことではないでしょう。わたしたちが真・善・美を求めるように創られているのは、神がまさに真・善・美そのものだからです。もちろん、実生活では、このことをいつも意識していないかも知れませんが、人は誰でも無意識のうちに真の幸福と永遠の命(究極の癒し)を望んでいます。そして神だけがこれを与えて下さることができるのです。アシジの聖フランシスコのように神を愛せたら、どんなに素晴らしいことでしょう。

第二の掟も、これと同じように重要です:つまり、「隣人を自分のように愛しなさい」。しかし、現代において、このことほど守られていないものはないでしょう。みんな自分のやりたいようにやっていて、自分も干渉されたくないし、他人のために何かをしてあげるのも好みません。わたしたちの生きている社会はいわばバラバラの社会です。みんなをひとつの家族にしたいという神の望みは忘れ去られているのです。

キリスト者であるわたしたちの生と死はキリストに結ばれています。十字架上で息を引き取った後、イエスは墓に収められました。イエスを憎んでいた人々は自分たちが勝ったと信じていました。イエスを愛していた人々はイエスの次の言葉を思い出していました。つまり「人の子は人々の手に渡され、殺される。しかし、三日目によみがえる」。

わたしたち人間の欠点のひとつに早合点ということがあります。神にはそういうところがありません。ゆっくりと、しかし確実に言葉を実現させていくのです。イエスの身の上に起こったことは神の計画でした。こんにち、イエスの復活をめぐっていろいろの意見があります。

わたしたちにも将来があり、神の計画があります。これらを前にして、わたしたちは果たして、どういう生き方を、あるいは死に方を選び取っていくのでしょうか。光り輝く勝利へと向かうのでしょうか。暗闇と憎悪の悲劇に向かうのでしょうか。神とともに愛を選び取るのでしょうか。それとも孤立して無に帰していくのでしょうか。

今の選びが、わたしたちの生き方を、そして終わりを決めることになるのです。

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