田園12月号 巻頭言

田園12月号 巻頭言  受肉の神秘

 助任司祭 アウグステイヌス 桑田拓治神父

 

 司牧神学の第一原理に受肉化の原理」があります。「受肉化の原理」とは、「今ここで神の御旨が実現しようとするダイナミズム」をあらわす用語です。過去と未来を結ぶ「今‐此処」という一点に神の救いの働きかけがあり、私たちは「時の印」を通して神の御旨を識別し、それに応えるようにと招かれた存在なのです。

 

 「インカルチュレーション」(時に文化内受容と訳されています)という言葉もその根底には「受肉化の原理」が働いていることを忘れるなら、方向性を誤ってしまうかもしれません。 典礼を日本の伝統文化を取り入れて行う事が「インカルチュレーション」ではないのです。「インカルチュレーション」とは、私たちひとりひとりが田園調布信仰共同体として、どのように主の記念を行う事がふさわしいのか、今ここで考え、分かち合い、識別し、取り組んでいくことなのです。常に主の霊は私たちに働きかけておられるのです。

 聖体祭儀も唯一の贖いの生け贄に与ることであり、「今—此処」で、司祭の手を通して唯一の贖いのわざが祭壇の上で現在化することなのです。その意味において私たちは唯一のミサを、時を超えて共に捧げ続けているのです。主がこの救いのわざの記念を教会共同体にゆだねられたことは、教会の召命の本質を示しているのではないでしょうか。

 私たちが「今‐此処」で共にミサを捧げるとき、私たちは神の祭司的民であり、キリス卜からゆだねられた使命を果たしているのです。生き生きとしてミサを共に捧げる上で「アーメン」と応える意味をもう一度、見直してみてはいかがでしょうか。

この短い言葉は一人ひとりの信仰告白であると同時に、キリストの神秘体としての神への叫びでもあるのではないでしょうか。

神の民として大きな声で「アーメン」と神に応えることは、教会という神秘体の頭で

あるキリストと心を一つにして、神の呼びかけに応えることなのです。

 

 今、私たちは主の到来を待ち望む待降節を過ごしています.主の到来は2000年前の出来事と、再臨の約束が成就する時とがあります。この過去と未来を結ぶ「今ー此処」で主の降誕を記念することが私たちにどのような意味かあるのを「想い巡らす」必要があるのではないでしょうか。

 

主は今ここに、私たちの間に受肉化されようとしておられることの意味を真剣に、個人として、共同体として「想い巡らす」恵みの時として待降節を過ごしたいと思います。

最後に師父聖フランシスコの言葉を記します。

「兄弟たち、私たちが聖なる模範で父である神の御旨を行うとき、私たちは世に主イエス・キリストをお産みもうしあげるのです」

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