田園2017年7月号 巻頭言

田園2017年7月号 巻頭言

創造における神の愛
協力司祭 トマス小平正寿神父

神の愛の本源の第一段階は創造です。愛はその本性によって、外に向かう傾向があります。愛である神は、愛を通して創造します。「神はなぜ私達を創造したのでしょうか?」これは、公教要理の問答の二番目の問いでした。「神を知り、神を愛し、人生において神に仕えて、次の世において神と共に永遠に喜ぶために」。これは完璧な答えですが、「どんな目的の為に神が私達を創造したのか」、「なぜ神は私達を創造したのでしょうか、そして何か神に私達を創造するように駆り立てたのでしょうか」という問いへの答えにはなりません。
この問題に対して、「私達が神を愛するように」と答えてはなりません。
そうではなく、むしろ「神が私達を愛したから」と答えるべきでしょう。
この点において、宇宙の起源に関するキリスト教と、科学万能主義の考えは、どんなにかけ離れていることでしょうか! 若い少年或いは少女にとって、最も深遠な苦しみの一つは、ある日彼らがもしかしたら、望まれないで、予期されないで、親の間違いを通して、偶然にこの世界に存在しているのかも知れないと思うときです。ある種の科学万能主義は、人類全体にこの種の苦
しみを与えているように思われます。愛によって創造されていた事実を私達に確信させるには、シエナの聖カタリナによる三位一体の神に対する熱心な祈祷以上に、より良い方法は他の誰にもできないでしょう。
次のように述べています。
「おお、永遠の御父よ、あなたはその時、どのように被造物を創造なさったのでしょうか?愛の火があなたに強要したのですね。おお、言葉で言い表せない愛よ、あなたは、あなたの披造物があなたの無限の善に対して犯すであろうすべての不正行為を御自身の光によってご覧になったのに、まるでご覧にならなかったかのようになさり、あなたの披造物に夢中になり、愛に酔って、愛し、愛から披造物にあなたのかたどりと類似性を付与し、披造物を御自分に引き寄
せて、披造物に目をとめてくださったのです」
このことは教皇ベネディクトー6世の愛徳を題材とする二つの回勅、つまり『神は愛』と『真理に根ざした愛』に書かれているように、愛の究極の源泉であられる神から出発することによってキリスト教の理想の美しさを浮き彫りにすることになります。キリスト教の理想は、それ自体において「エロース」と「アガペー」を和解させ、それによって人間関係に必要なすべてのことを
も調和させ染め上げていくのです。
新約聖書によれば、「愛」がまとうべき特質に格別な注意が払われています。それは「誠実な」愛、偽善抜きの、しかし「実効性のある」、単なる感情や言葉の上ではない、他者への具体的行為を伴うものでなければなりません。要するに、心に始まって、行いを通過する愛です。この考え方にそって、これは福音の社会的な意義についての議論にも広がっていくことになるでしょ
う。世俗化かとりわけ広範囲かつ不吉に振る舞う領域があります。その一つが「愛」という領域です。この愛の世俗化は、あらゆる形態の人間愛を、神から切り離すことにあり、それを「不敬な」ものに矮小化することにあります。ここでは、神は障害物であり、時に邪魔者でさえあるのです。「愛」というテーマは福音宣教、つまり「世」との関わり方のためだけに重要なのではありません。愛は、また、何にもまして、教会の一員である信者の聖化のために、教会の霊的生活にとっても重要なのです。これは教皇ベネディクト16世の回勅『神は愛』が依拠する視座であり、わたしたちが黙想すべき視座でもあります。(R.C. 著 黙想書の私訳から)

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