田園2018年4月号 巻頭言

田園2018年4月号 巻頭言

 

金祝に当たって思い出すこと

協力司祭 トマス小平正壽神父

 

幼いころの思い出
私は戦中の生まれで、戦争直後の貧しさの中で小学校に通いました。今でも小学校での6年間が一番懐かしいです。つい最近、同級生だった女性(この方は有名な画家であった故松本かつぢ様の長女です)からのメールで知ったのですが、彼女は私にこう、うちあけてくださいました。「家が貧しくてスカートが買えないので風呂敷を巻いて登校する女の子をからかった白分がはずかしいです」と。そのような時代だったのです。さて、すでに家族がカトリックであったせいか、両親は私を暁星に通わせたいと思ったのです。今まで通っていた二子玉川小学校は、いまでこそ立派な校舎に生まれ変わり、周りも立派な街へと変貌してますが、当時は周りが畑だらけの田舎でした。

そういう環境しか知らない私がいきなり千代田区の都会へと通うようになったのです。小さい体に重いカバン、朝6時に起きて1時間以上の道のりを通いました。

 

遅れそうになって二子玉川の駅まで走っていったこと、手が電車のドアに引き込まれてしまったこと、自由が丘で東横線に乗り換えるために急いで行こうと恩ったらヤーサンのはいていた草履を踏んで怖い思いをしたこと、など、など・・・

 

そして何よりもショックを受けたのが貧しい戦後にあって暁星の生徒たちのお坊ちゃんぶり、高級車での送り迎え、長靴を履いていくと馬鹿にされたこと。そんな中にあってフランスから来ていたマリア会のブラザーたちが私の心の支えだったのです。

 

マリア会かフランシスコ会か?
当時の暁星には日本のマリア会の司祭以外にも外国から多くの司祭、そして教職担当のブラザーたちが来ていました。最もミッション・スクールらしい時期だったと思います。中学・高校を通して非常に宗教的な雰囲気の中で教育を受けました。また、ブラザーや司祭たちからマリア会への誘いも受けたのです。一方、私は家の近くのフランシスコ会の教会にも毎日曜日通い、侍者をしていました。その時の主任司祭はポーランドの方で樺太やサハリンで司教職をなさっていた方で、私の母の体が弱いということで毎週、家まで来てくださり、カトリック要理を教えてくがさるほどの熱心で、愛にあふれた大変に恩のある方でした。

 

私の心は揺れていました。しかしアシジの聖フランシスコの伝記を読んでから私の心は決まりました。「貧しき求めて己を低め世の富振り捨てし平和の使者アシジの聖フランシスコ我らの心を目覚めさせ、我らに愛を悟らせよ」。いつしか私はこのように口ずさむようになっていたのです。

 

新しい出発
当時、召命を受けて集まってきていた人々は若い方々でした。皆、先ず福岡の高宮の修道院に集められ、ラテン語の習得に励みました。それから北浦和の修練院、そして瀬田の神学校に進んだのです。長い勉学の後、司祭に叙階され、今日に及んでいます。これも皆様の混かい御支援とお祈りの賜物と深く感謝しています。

 

皆様の上に主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり、聖母マリア様の御取次を願いながらこの稿を終わりたいと思います。
いつも応援してくがさる暁星の同級生の皆さまにも感謝しています。ここの信者様である赤尾さまもわたしの同級生です。

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