田園2017年12月号 巻頭言

田園2017年12月号 巻頭言

 

共におられる神

協力司祭 トマス小平正壽神父

 

イエスはユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。ベツレヘムはエルサレムの南方10キロの所にある小さな村ですが、聖書には「ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの中の氏族の中で、決して最も小さな者ではない。おまえからひとりの頭が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである」(マタイ2・・6、ミカ5・・1)と書かれてあります。

クリスマスは神の御子の誕生を祝う時ですね。しかし、御子の誕生の直後にヘロデの命令によって幼児虐殺の出来事があったことを私たちは知っています。まさに、神の御子は暗き中に馬小屋で生まれられたのです。十字架上で命をささげるまで、それほど人と苦しみを共にして下さったのです。ここに神の愛が示されました。

 

ヘロデは自分の王位を脅かす存在としてイエスを抹殺しようとしたが、果たせなかった。ヘロデの後継者だらけ自分たちの安定を乱すものとしてイエスを捕えて十字架に架けたが、イエスは復活され、彼らの試みは失敗した。このことは私たちに何を伝えるのでしょうか。ヘロデは自分の地位を守るために自分の子供さえ殺し、ベツレヘムの幼児を虐殺し、罪なき市民さえ殺した。ヘロデは特別の極悪人なのでしょうか。歴史はそうではないと教えています。第二次大戦の時、ナチスによる6百万人のホロコーストがあり、同じ大戦で目本や中国や韓国で犠牲となった人々の数も数百万人に上ることでしょう。

 

・闇路に迷えるエワの子たち

イエスの誕生を聞いて、ヘロデ王は不安を感じ、エルサレムの指導者たちも不安を感じたのです。現状に満足するものにとって神の御子の出現は現状の否定であり、不安をもたらすのです。私たちがこの世の常識、道理、世間豊の暮らしに満足していれば、私たちにとっても神の子の出現は不安材料でしかないことでしょう。しかし、私たちはこの世の安定がいかにもろいものかを既に知っています。幸せな結婚生活を始めても、危機を迎えることかあり、会社の中枢で働いていても都合が悪くなれば会社が個人を捨てることあるでしょう。このような情況下で、私たちは白分たちの平安を人間に委ねることはできないでしょう。

それではどうすれば良いでしょうか。私たちのそれぞれはある時、この世に、そして人間に絶望したことがあったことでしょう。その苦難の時、逃げ道がなくどうしようかと思い悩んでいる時に、「私はあなたと共にいる」との神の声を聞いたのです。そして自分たちの生き方が根源的に変えられたのです。

その体験を通して、「神が私たちの味方であるならば、誰が私たちに敵しえようか」と告げるパウロの言葉が真実であることを知ったのです。

 

今日、私たちはヘロデの迫害から神がイエスを守られたことを知りました。エジプト王からも神がモーセを守られたことを知っています。キリスト者は長い人生の中で、神が私たちを守り、導いてくださることを経験的に知っています。

だから、見える情況がどんなに暗く絶望的であっても、私たちは希望を捨てないのです。希望を特つことによって、暗き情況は変らずともそこに光が差し込むのです。
神共にいましたもう、これさえあれば他には何も要らないのではないでしょうか。御子の誕生は私たちにそれを伝えてくださいます。

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