田園2016年2月号 巻頭言

田園2016年2月号 巻頭言

平和と喜びを願い求めるとき

協力司祭トマス小平正寿神父

 

イエス・キリストの時代

2千年前も人々は激動の時代を生き平和を必死に求めていたに違いありません。だからこそイエスは平和の君として福音を説くべく公生活の初めにこの要請に答えたのでした。今までにない新しい教えにキリストのもとには多くの人々が殺到しました。

福音書に出てくるイエスは一人一人に尋ねたのです。つまり、「何を求めているのか?」「何を望むのか?」、「どうしてほしいのか?」というイエスの問いかけに、人々は自分たちのねがいを懸命に訴えます。

願いを聞き入れられた人々にイエスは言います。「あなたの信仰があなたを救った。安心していきなさい」と。イエスのいつくしみはさらに霊的な部分にまで及んでいきます。すなわち「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、歩け』と言うのと、どちらが易しいか」(ルカ5、23)という福音のくだりはこれをよく表しています。

 

初代教会において

教会はその歴史の最初においてすでに多くのトラブルに巻き込まれていました。聖書に次のようにあります。

「あなた方のうちに、苦しんでいる人がいるなら、その人は折りなさい。喜んでいる人がいるなら、その人は賛美の歌を歌いなさい。あなた方のうちに、病人がいるなら、その人は教会の長老たちを呼び、主の名によって油を塗って折ってもらうようにしなさい。

信仰による折りは、病人を救います。主はその人を立ち上がらせ、もし、その人が罪を犯しているなら、その罪は赦されます。

あなた方が癒されるために、互いに罪を告白し、そして祈り合いなさい。

正しい人の祈りは大きな力があり、効果があります」(ヤコブの手紙5・13〜16)。あらゆる困難にあって信者たちは互いに助け合っていたのです。

 

ミサ聖祭の犠牲の上に成り立つ和解

したがって、キリスト教的な和解とは神による恵みにほかなりません。人間にはできなくても、神にお出来にならないことはないのです。神は私たちのことをよくご存じだからです。「罪を除いて私だちと同じになってくださったキリスト」は、喜びも悲しみも痛みも感じることのできる、真の人間でもあったのです。

さらに聖書には、「誠に彼は私たちの病を担い、私たちの苦しみを背負った。(略)彼の上に下された懲らしめが私たちに平和をもたらし、彼の傷によって私たちは癒された」(イザヤ書53・4〜5)とあるように、主イエスの十字架の犠牲こそが、私たちに平和と和解をもたらしました。

 

秘跡を通して

今こそ熱心に救いの秘跡の源であるキリストに析る時です。病者の塗油、ゆるしの秘跡、そして御聖体の三つの秘跡は特に私たちに力を与えます。

 

救い主であるキリストの喜び

イエスのご生涯は人々に喜びを告げることでした。「私の喜びがあなたたちにあるように」(ヨハネ15・11)とおっしやっています。また『あなたたちの心は喜びで満たさわるであろう』(ヨハネ16・24)とも、おっしやっています。

福音という言葉自体がよい知らせを意味しています。つまり喜びの訪れであります。

「私が来たのは命を豊かに得させるためである」(ヨハネ1O・10)とイエスはおっしやっています。生命の満ち満ちているところに喜びがあります。

イエスは『あなた方は幸いである。小躍りして喜べ』(マタイ5・12)とおっしやっています。

私たちはそれを味わいましょう。聖パウロも次のように言って弟子たちを励ましています。「いつも喜びなさい。重ねて言いま

す。喜びなさい」(フィリ4・4)。喜びはまた努力によって花咲かさなければなりません。「どんな苦しみにあっても、この上なく喜びにあふれているのです」と聖パウロが言っている通りです。

 

大自然は人を元気にする

今でも田舎に行くと、清らかな水に、暖かな太陽に、恵みをもたらす雨に、手を合わせて感謝する人々がいます。その光景を見るとホッとします。まだ人間の心が残っていると思います。朝早く起きて、野良仕事に出かけ、日没とともに家に帰るのです。そこには都会のような喧騒はなく、群衆もいません。その代わりに、大自然と直と向かって生きている人々かいます。心から本音で会話する人々がいます。その仕事のきつさにも拘わらず元気です。大自然という大きな懐に抱かれて癒されているからです。

東京近郊の山の中腹には大きなラテン文字 で、NATURA SANAT(自然は癒す)と彫られた巨岩がありますが、これを発見した時は大きな感動を覚えました。

 

私たちは互いに支え合う存在です

私たちはわずかなことで悲しんだり嬉しがったりしているのかもしれません。肉体の健康と心の平安を私たちは必要としています。それは日常のごく些細なことから始まるのかもしれません。ですから、わたしたちがいつでも立ち上がろうとしている人たちには肋けとなるように心がけましょう。

愛と思いやりには、おこたりや、なまけや、なおざりがありませんように。魂が励まされるのも人から受ける温かい思いやりがある時ではないでしょうか。このように、人生の中で大きな意味をもつものはわずかちょっとしたことです。勇気づけるためのほほえみとか、握手とか、手紙とか。魂が励まされるのも、人から受ける温かい思いやりがあるとき、歩む道を照らしてくれるのも、そして一段と輝かせてくれるのも人から受ける、ほんのちょっとのほほえみであることがあります。肩の上にやさしくかかる手が道を明るくすることがあるかもしれません。何気なく書かれたカードやノートそして手紙か、他の兄弟の重荷を軽くしてあげているかもしれません。人生の時々重い道のりや荷を持ち上げてくれるのも、

ちょっとした思いやりや、やさしいまなざし。反対に、私たちの歩みを、とても暗くしてしまうのも、ちょっとしたわずかなことのため。思い出しましょう。

この世を良くも悪くもするのは、それはいつもちょっとしたわずかなことのため。だからこそよく折りましょう。

私たちが毎日、兄弟に対して親切で理解深くありますようにと。そうすると私たちのところに来るすべての人を祝福し、癒すことになるでしょう。

人生の荷を軽くしてあげられる、わずかなことを時々思い出しましょう。ともに旅ゆく毎日の路(みち)が、たとえでこぼこでも、ともに支えあう喜びがありますから。

神に感謝!

 

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