田園2016年11月号 巻頭言

田園2016年11月号 巻頭言

死者の月

主任司祭 ドミニコ竹内正美神父

 

教会は十万を死者の月として定め、亡くなった人のために析るように勧めています。昔、府中カトリック墓地のある墓にこんな言葉を刻んだ碑がありました。「良く来てくれました。あなたとここに来たこともありましたね。今度はあなたの番ですよ」。
この語りかけを聴くのも、墓参の収穫の一つでした。今は見かけなくなりました。

また、木澤さんというカトリックのお医者さんが言った言葉が今でも耳に残っています。人は必ず一度は死ぬ。こんなに確実なのに人は無関心で、死に対しての準備をおろそかにしている。それに引き換え、人は、病気にならないようにと必死にあれやこれやと思い悩んでいる」と。
また、「一日に一度、死について考える人は賢明な人である」とも言われています。その人の生き方を真剣なものにさせるから
です。「死」は人々に忌み嫌われていますが、「死」のつく言葉で「死に物狂いで何かをなす」「必死になって何かを成し遂げる」「死んだつもりでもう一度やり直す」と、死は私達を奮い立たせる不思議な力があるようです。

コヘルトの言葉に 何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生れる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時・・・」(コヘルト3・1)とあります。すべてのものに初めがあり、終わりがあります。一日の始まりと終わり、一月の始まりと終わり、一年の始まりと終わり、四季の春夏秋冬にも初めがあり、終わりがあります。これらの日々は決して同じものではありません。

人々は何時も自分がどうして生まれ、何のために生き、何に向かって行くのかという究極の問題についての解決を求めてきました。
そこにも「死」が前提にあるような気がします。
私たちはキリストの死と復活の秘儀についての教えを信じ、キリストの死と復活に与ることを知っています。死は永遠のいのちへの門であることも知っています。
キリスト教には死を忌む」概念はなく、キリスト者にとって、死は神のもとへの凱旋であり、永遠の命への旅立ちであるのです。死者の月に当り、死者のために冥福を析るとともに自分の死について考えてみることも死者の月に相応しい過ごし方ではないでしょうか。

主よ、みもとに召された人々に永遠の安らぎを与え、あなたの光の中で憩わせてください。アーメン。

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