田園2月号 巻頭言

だれを信じる? 協力司祭 フランチェスコ新直己神父

前教皇様ベネディクト十六世が定め、二〇一二年十月十一日より二〇一三年十一月二十四日の『王であるキリストの祭日』までの昨年一年間は信仰年でした。始まった当初は「今更どうして」という思いが正直ありました。
しかしこの『信仰年』という一年を過ごしてみて、また今回しばらくの間滞在することになったヨーロッパの世俗化の現状を見てからは、この時まさにこの『信仰年』というものが叫ばれるようになったのは、やはり意味のあることだと実感するようになりました。

信仰が足りないというよりか、現代社会はその必要性を感じなくなっているのでしょうか。ともすると教会にいるわたしたちもその影響を受けているようです。でもその一方で、何か根本的なことが問われているように感じられるのです。

今回、たまたまその週末をローマで何日聞か滞在することになったのですが、教皇ミサに与れるというのは貴重な機会なので、その主日の朝、もう一人の兄弟とバチカン広場に行くことにしました。
ごミサの中で教皇様は「キリストの中心性」ということについては何度も力強く訴えておられるのが印象的でした。
わたしも心の中で本当にそうだと感じていました。

この間もある人からちょっと挑戦的な感じで「本当に神の存在を信じているんですか」と聞かれることがありました。唐突だったので、答えに戸惑いましたが、幸いに傍にいた人が助け舟のように、ご自分の体験について話されたので何とかそこは収まったのですが・・・。もちろん「信じていない」わけではないのです。それでも「はて自分は一体何を信じてるんだろう。何を拠り所としているんだろう」と改めて自分自身に問いかける良い(?)機会が思わぬ形で与えられました。
それからしばらくの間そのことについて考えてみました。
神の存在を疑うということはないのですが、目に見えないような神様のなさり方に期待するよりかは、もっと人間的な、何か身近な別のものに頼っていることも多いものです。その証拠にそれらがなかったりするとちょっとイライラする。いずれにして
もわたしたちは一体、何に一番期待を寄せているんでしょうか。見直してみる必要が
ありそうです。

わたしたちの日常生活の細かいところまで具体的に関心をもたれ、暖かく見守っておられる神の視線、毎日の生活の糧としてなるような生き生きとした力強い御言葉、そういったものをもっと感じたいものです。それは体を通してわかるような信仰なんだと思います。

先ほど訪れていたヨーロッパでも世俗化の波は進み、教会の状況は日本以上に深刻なものがあります。さらに世界中の情報が瞬時にして飛び交う時代です。「一体何が本当のことなの?」人々はますます何を信じて良いかわからなくなってきているのかもしれません。それでもその一方で、人々が何かに飢えているようです。人との触れ合いに、愛され受け入れられることに、そして神に・・・・。

現代ほどその必要性を感じている時代はないかもしれません。「なぜ今信仰を問うのか?」この問いかけは現代社会に住むわたしたちにとって、やはり意味があることだと思うのです。

わたしたちが信じているキリストはもっと魅力に満ちた方です。決して紙に描いた餅ではないのです。まだまだその魅力をわたしたちは知らないでいます。この宝をわたしたちが見出していくなら、人々はもっと教会に関心を寄せてくるはずです。

イエスがいるところに・・、聖霊が働くところに・・、何かドキドキがあります。わたしたちはこのドキドキをもっと体験したいものです。そのためにはこの方を生活の中心に取り戻すべきでしょう。

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